2004年11月16日

異物を排除する”健全さ”とは

「<癒し>のナショナリズム」に関するエントリでも書いたが、自分を”健全な”とか”普通の”と形容することは実に危なっかしい。
何を持って普通で健全とするのかを示さずに、漠然と私は普通です、と規定してしまうことは、自分とは違う存在を”あれは異常、普通じゃない”と否定する態度に簡単に変化しかねないものだ。
こんなことを書くのも、「情報ライブEZ!TV」なる不快なTV番組の不快な特集を観てしまったから。

「電気街に異変!? 秋葉原にハマる若者たち」と題され、11月14日に放映されたこの特集では、秋葉原がかつての”電気街”から”美少女アニメ/ゲーム等の街”に変化したことを紹介した後に、二人の人物の取材を通して秋葉原に通い詰める”オタク”の姿を描いている。

前半では美少女フィギュアを買い集める名古屋在住の男性が登場するが、彼は現在無職でアルバイトをしながら食費を切りつめ、ときおり秋葉原に出てきては小遣いをやりくりしながら買い物をするのだという。
彼の部屋でのインタビューでは、まずフィギュアをさして「これでどうやって遊ぶんですか?」と尋ねる。いったいどんな回答を期待したのだろうかと不思議でならない。フィギュアを並べてお人形さんごっこでもやってほしかったのだろうか。
続いての質問は「やはりなにかから逃避したいということですか?」と来る。ステレオタイプなオタク像の強調に必死だ。このような取材を受けた本人の責任もあろうが、視聴者に”こいつらは私たちとは違う”と思わせるイメージを強調しようとするテレビ制作者の意図は明白だ。

続いて登場したのは、メイド喫茶のウェイトレスに恋したという男性。彼女とのツーショット写真撮影のために特大のかき氷をかきこみ、他の客との撮影時には恨めしげに見つめる姿は、人々の”もてないオタク”イメージに実に忠実だ。
写真撮影のために店外で会い、コミックに倣ったシチュエーションでの告白へと場面は進むのだが、ウェイトレスに恋して通い詰めるという行動よりも、むしろこうした取材を受けてカメラの前で告白の場面を演じてみせることの方が、はるかに異常だと私には思えた。
彼の行動自体は、クラブのホステスに入れあげて通い、同伴と称して店外でのデートを楽しむ中年男性とさして変わらない。妻子を裏切っているわけでもなく、受験勉強をお留守にしている程度のものと考えれば、どれほど異常だろうか。

コーナーの終わりで司会者は平然と彼らを貶める発言をしていたが、この”自分たちは普通だが、あいつらはちょっとおかしい”という峻別がどれほど危険なものかを、森本毅郎はどこまで理解しているだろう。
いとも簡単に異物として排除してしまうことで、当面の安心感は得られるだろう。けれど、自らの健全さを疑いもせずに”サヨク、朝日新聞、共産党...”と排除を繰り返したあげくに、「新しい歴史教科書をつくる会」やその下部組織の参加者が直面したのは、”自分たちはちっとも普通でも健全でもなかった”という事実だったはず。自己の”普通さ”を疑いもせずに、オタクの言動に眉をしかめてみせるこの芸能人には、ニュースや事件をしたり顔で論評する資格などありはしない。

もちろん、喫茶店やカラオケボックスの狭い机にノートPCを並べたコミュニケーションが不気味な印象を与えることは確かだろう。
しかし、コミュニケーションの手段が見慣れぬものだからといって、あるいはその嗜好が理解できないからといって異物として排除することを、私たちは安易にすべきではないと思う。
ほしいモノを買うために毎食インスタントラーメンで済ませたり、好きな異性と会うために用もない場所にでかけていったりといった経験は、それほど珍しいものではないだろう。そこに”現実からの逃避”とか”コミュニケーション不全”といった便利な解釈をはめ込んで自らを安全地帯に置こうとするのは危険なことだ。

私が驚いたのは、この番組に言及した個人WEBサイトの多くが、彼らの行動を「キモイ」「同じと思われたくない」と否定し去っていたことだった。だれかに迷惑でもかけたのならともかく、それほど強い拒否感の背景には、やはり事前に作られたネガティブなイメージがあると考えざるを得ない。
問題は、こうしたネガティブイメージを意識したのではなく、さまざまな場面ですり込まれ、あるいは強化していることに自分自身も気付かないでいることだ。

そもそもこの取材自体がメイド喫茶の客に依頼しての”ヤラセ”であったとか、メイド喫茶のウェイトレスに恋した男性は役者であるといった指摘もあるようだ。
真偽のほどは不明だが、テレビ局の意図は秋葉原の現状やそこに通う人々の姿をありのままに報道することにはなく、ステレオタイプなオタクイメージを強化しておもしろおかしく見せること、あるいは多くの視聴者が”安心して排除できる”人物像を提示してみせることにあることが明白なのだ。ヤラセでも演出でも迷わずにやるだろう。
問題はテレビ局のヤラセ・捏造よりも、こうして作り出されたオタク像を自己の持つネガティブイメージと簡単に結びつけ、他者排除の論理に易々と乗ってしまうことにある。オタクを別の集団に置き換えてみれば、その危険性に多くの方が慄然とするはずだ。

Posted by dmate at 2004年11月16日 21:00 | TrackBack
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