2004年09月23日

そんなに多数派でありたいのか〜「<癒し>のナショナリズム」

このweblogで、なんどか「新しい歴史教科書をつくる会」(以下「つくる会」)の歴史と公民の教科書を取り上げた。
その内容について正面から取り上げるためにはまず教科書そのものを読む必要があるのだが、どう考えても時間の無駄でしかなさそうに感じられ、今のところそのつもりはない。今後、この教科書の採用が広がるという動きでもない限り、教科書そのものにはあまり大きな関心は持てない。
一方で、私が大いに関心があるのはこうした教科書づくりが一部のアナクロニスとだけによって進められたのではなく、いっときは比較的広範な市民の活動に依拠していたということだ。

本書は、「つくる会」の下部組織として活動していた神奈川県のグループへの参加体験と、メンバーへのインタビューやアンケート調査などが浮き彫りにする、活動実態のレポートだ。メインとなる上野氏の卒業論文を、指導教官である小熊氏の論文がサポートするという構成である。
小熊氏も認めているとおり、上野氏の論文部分は全体の構成が弱く、完成度も低い。同じ人物による同じ発言が頻出しているので、読者を混乱させてしまう。可能であれば、論文自体を改稿すべきだったかもしれないが、調査から間もない時期にまとめられたゆえの迫力があるのも事実だ。外から見ると単なる右翼運動を支えていた人物が、天皇礼賛もしなければ戦前の軍国主義的な社会を望んでいるのでもない。彼らが強く主張することといえば、自身を普通の市民であると位置づけるだけ。こんなギャップへのとまどいがストレートに表れている形で公開することを、完成度よりも優先したのだろう。

論文で指摘されているとおり、参加者のうち4割以上が産経新聞を購読している人々が、現代の日本の平均的な市民の政治的スタンスを代表するわけではないことは明白だ。その背景はどうあれ、明らかに保守的な価値観をもつ人々の集まりが、ここで題材となっている「史の会」だといえる。
しかし、そのメンバーはほぼ共通して自身が普通の市民だ、という点に強いこだわりを見せている。普通ではない人々とは、彼らは敵視し、あるいは小馬鹿にする”左翼”や”朝日新聞”のことだ。
同時に、若年のメンバーが戦中派に対して距離を置く姿からは、天皇を神聖な国家元首と位置づける旧来の”右翼思想”にも近づいていこうとしないのは、実に印象的だ。
彼らのアイデンティティを支えるのは、自分が”何者であるか”ではなく、”何者でないか”の積み重ねである。”左翼・サヨク・朝日新聞”ではない自分、”戦中派とは違う”自分、それが彼らだ。
香山リカの「<私>の愛国心」でも指摘されているとおり、”自分以外はみんな「バカ」”という、永遠の他者排除の構造にどっぷりとつかり混んでしまっている。

自分自身を語り、表現する言葉や概念を持たないという点で、確かに彼らは普通なのかもしれない。
彼らの”思想”が、さまざまな情報や体験の中で形成され、体系づけられたものでないことは、上野論文の短い引用からも十分に感じ取れる。”○○でない自分”という空白がまず先にあって、そこにたまたま出会った保守的な言論をはめ込んだだけではないかとさえ感じられるのだ。こうして自身の体験や思惟によらない”思想もどき”を取り込む上では、小林よしのりのようにマンガというメディアによって論理や事実ではなく、ただ印象を送り出すという手法は非常に効果的だっただろう。

本書のタイトルには<癒し>のナショナリズムとある。
自分が何者かでありたい、という欲求を持つ者にとっては、その寄る辺となる思想や体験を持ち得ないことは極めて大きな不安を伴うものだ。ヒットソングの歌詞を例示するまでもなく、若年層の多くはその不安を”みんな同じように不安なんだ”という確認をすることで押さえ込もうとしているかのように思える。
もちろん、若さゆえの不安感は誰もが体験する。たとえある程度加齢したあとでも、自身が何らかの寄る辺をもつのか、という問いかけをしたとき、多くの人々は自身の不安定さに驚くだろう。私ももちろん例外ではない。
しかし、その隙間を安直な正解によって埋めてしまうことが正しくないことくらいは、私は10代の頃から知っていたし、私の友人たちもそうだったと確信している。正解が見つからないからといって、人に与えられた正解もどきを信じるのは、普通ではない、ちょっと弱い人々の行動ではなかったか。

弱さを非難する気は毛頭ない。私もたくさんの弱さを抱え、再確認させられながら生きている。
私が非難するのは、その弱さをあっさりと認めてしまい、どこかで拾った価値観や印象をもってその埋め合わせとする安易さ加減だ。「ゴーマニズム宣言」をある期間読めば、小林よしのりは物事のその場の感情で判断し、その感情のふれを増幅しているだけなのだと気づけるはずだ。それが個人の感情である以上、ある時は共振しても、別のときには不協和音を発するのが”普通”だ。なんのことはない、私がこうして書いているweblogのエントリと、小林の「ゴー宣」とにどれほどの距離があるだろうか。
「史の会」のメンバーも、個々人が完全な意見の一致を見ることはないと理解している。むしろ、お互いの衝突を巧妙に避け、共振できるテーマだけを慎重に選びながら活動しているかのようにさえ感じられる。言葉は強いのにYES/NOは不明確な”普通の人々”の言葉と実に良く似ている。

確かに「史の会」のメンバーは普通の人々だ。おそらく、全国で「つくる会」を支えた人々も同様だったことだろう。
しかし、その普通さは思想が中立的で普通で健全であることの現れではなく、寄る辺のなさや弱さの点においてそうであるにすぎない。だとすれば、わざわざ自身の普通さを強調して見せる必要などない。
問題は、プラモデルのパーツにできた隙間にパテを埋め込むように、安易に受け入れてしまった思想や立場を、人は強化させがちであることだ実態はどうあれ、自らが選び取ったと思うものを人は大切にする。誰が見てもインチキな教義や馬鹿げた占いで財産を投げ出したり、改名をしたりする人が後を絶たないのは、彼らがだまされたからではなく、彼らはそれを自ら選び取ったと信じているからだろう。
宗教と政治的立場を同じにするなとお叱りを受けるかもしれない。しかし、自分が何者でもないという不安感を打ち消すために取り込んだだけの価値観が、UFOや解脱なのか、保守思想なのかにどれほどの違いがあるだろうか。
自らを普通に位置づけたいがために、保守思想を”選び取った”と思いこんだ人々がいる。彼らもまた、日本の主権者だ。草の根ナショナリズムが個人の不安感に発している以上、同じような落とし穴に嵌り込む人は後を絶たないだろう(嵌り込む穴が、左翼思想だったという人ももちろん出てくるだろうが、おそらく少数だ)。
左右どの立場に身を置くのであれ、今ほど思想界がきちんとわかりやすい言葉で語ることが必要なときはないのではないか、と私には感じられる。個人の印象など、蹴散らしてしまう言葉の力を見せてほしいものだ。

 <癒し>のナショナリズム〜草の根保守運動の実証研究
 小熊英二・上野陽子著
 慶応義塾大学出版会

Posted by dmate at 2004年09月23日 00:08 | TrackBack
Comments

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