2004年09月27日

”フルサイズ”なんかいらない

レンズ交換型の一眼レフデジタルカメラ(以下、デジタル一眼)に関心のないかたには、よくわからないタイトルかもしれない。けれど、この話題はデジタルカメラ関連の掲示板で登場すると必ずといって良いほど”荒れる”テーマといって良い。
デジタル一眼のカタログを見ると、「レンズ焦点距離は35mmの1.5倍相当」といった表記が見つかるが、これは、従来のフィルムに比べてデジタルカメラのフィルムに相当するCCDやCMOSといった半導体の大きさが小さいため、同じレンズを使っても写る範囲が狭くなることを示している。ちょうど、写真の中央部分を切り出したものと考えれば良い。ニコンでは、デジタル一眼の全ての機種でこれが1.5倍相当に(つまり300mmのレンズで450mmと同じ範囲が写る)なるよう共通化されており、「DXフォーマット」と称している。
この半導体(撮像素子と呼ばれる)の大きさが従来のフィルムとまったく同じになれば、同じ範囲が写ることになり、これが一般に”フルサイズ”と呼ばれている。
4年ほどデジタル一眼を使っているが、私にはこの”フルサイズ信仰”がどうも理解できない。

そもそも言葉の選択というのは何らかの価値観を反映したものが多いのだが、この”フルサイズ”という表現もまた同様だ。フィルムと同じ大きさが基準であり、それより小さな素子はあくまでも”半人前”だという価値判断を含んでいる。それゆえ”フルサイズ”と呼ぶこと自体に私は抵抗があるのだが、ここでは理解のしやすさを優先してそう呼ぶことにする。

”フルサイズ”派の言い分としては、写る範囲が狭くなるので広角撮影に不向きであること、同じ範囲が写るといっても背景のボケ方や遠近感に差が出ることなど、個々には頷けるものが多い。共通していえることは、従来のフィルムを使った一眼レフカメラとまったく同じ使い勝手を、デジタル一眼に求めているということだ。
確かに、長年一眼レフカメラを使い続けてきたかたがたにしてみれば、自身の感覚をまったく変えずにすむ”フルサイズ”の必要度は高いのかもしれない。デジタル一眼を従来のカメラと併用する場合なども混乱してしまいかねない。けれど、そのような使い方は必ずしも多数派とはいえないだろうし、そもそも同じレンズやアクセサリー類が使えるだけでも、かなりありがたいことなのではないだろうか。

私はデジタル一眼はフィルムを使った一眼レフの資産を流用した、新しいカメラだと思っている。写る範囲が狭くなろうとなんだろうと、一眼レフというのはファインダーから覗いた絵が撮影できるカメラなのだから、見て撮ればそれでいいのだ。
もちろん私も、D1を購入した2000年当時は広角の不足に不満を感じた。当時私の手持ちレンズでもっとも画角が広いのは20mm〜35mmというズームレンズだったので、30mm〜52.5mm相当の平凡な広角ズームになってしまっていた。けれど、その後シグマから15mm〜30mmの超広角ズームレンズが発売されたのを購入してほぼ不満はなくなったし、先日ようやくニコンの12mm〜24mmのズームレンズを追加購入した。解決可能な問題はさっさと解決してしまえば良いのだ。
一眼レフはレンズによって撮影できる写真に変化がつけられる柔軟性が魅力なのだし、超広角ズームが用意されているのだからそれを選べばよい、私はそう思う。現時点では、”フルサイズ”のデジタル一眼を買うよりも、価格の落ち着いてきた既存のカメラとデジタル一眼専用の広角ズームを購入した方が、はるかに安い。
そもそも、”フルサイズでなければ”と騒ぎ立てる人々が100人いても、実際のそのカメラを買うのは数人。あとは単なる便乗組だろう。

カメラファンの中には、自身が期待を寄せるメーカーへの愛情が深いあまりに、その販売戦略やら企業戦略まで心配しているかたもいらっしゃる。
ニコンのデジタル一眼でいえば、ライバルのキヤノンがEOS-1DSという”フルサイズ”のボディをもっているのに、ニコンにはないことが顧客離れにつながる、と掲示板などであおり立てるのをときおり見かける。キヤノンのEOSは確かに素晴らしいカメラシステムで、手ぶれ補正レンズなど新しい技術の商品展開も早い。安価な普及機で初心者を取り込み、中級機、高級機とステップアップをさせられる商品ラインナップの考え方も実に理にかなっている。
一眼レフのように追加オプションが極めて多い商品の場合、ユーザーは選択にあたって将来の可能性も気にかけるものだから、ボディの中に”フルサイズ”機があるのは確かに有利だろう。ただし、現状では100万円近くする商品では、コンシューママーケットでのシェアを大きく左右するほどの要因になるとは思えない(プロ向け市場では問題かもしれないが、こちらは商品単体で競争する市場ではないだろう)。ニコンの商売を心配するなら、D70という普及機のヒットのあとで矢継ぎ早に中級機であるD100の後継機種を投入できずに、おそらく冬のボーナス商戦では高級機のD2Hの値下げで対応せざるを得ないことのほうが問題だろう。とはいえ、これとて商品投入のタイミングをキヤノンとずらすことによって正面競合を避けるという観点では、立派な戦略性をもった行動だ。
趣味性の高い商品だけにあれこれと考えるのは楽しいかもしれないが、ほとんどの場合、真面目に考慮するにもあたらない感情論に終始している。愛情あり余って、という現れなのだろうが、あれこれと理屈などつけずに「私は感情的に”フルサイズ”でないと嫌なんだ」と正直に言ってしまえばいいのに、と感じる。

”フルサイズ”だからといって単純に素晴らしいカメラができあがるわけではないのは、コンタックスやコダックのデジタル一眼が照明してしまっている。商品としてのバランスは重要で、例えば価格ひとつとっても、売れる値段は100万円なのか、80万円なのか、あるいは60万円まで下げねばならないのか。
ユーザーの願望として、”フルサイズ”を希望するのはもちろん自由だ。けれど、新商品が発表されるたびにやれ今度もフルサイズではなかった、キヤノンとの差が開く、(D2Xが発表されたばかりなのに)D3がこういう仕様でないとニコンは危機だとか、一日千秋のごとく同じ話題が繰り返されるのを見ると、”みんな単に楽しんでいるのね”と理解するしかない。
私はいちユーザーだし、自分が買えるカメラとレンズでどのような写真を撮るかにしか興味はない。”フルサイズ”が商品として成立することがあれば、将来買い換えるかもしれないが、いま手に入らないからといって騒ぎ立てる気はない。
掲示板など見なければよい私と違い、ここまでの愛情を注がれるメーカーの開発者やマーケティングの担当者は、業務上無視もできないだろうし、さぞかし胃が痛いだろうなと思うのだ。もっとも、ニコンには「社長を出せ!」の登場するような強者のクレーマーもやってくるようだし、掲示板の騒ぎくらいはハエが飛んでいる程度なのかもしれない。

Posted by dmate at 2004年09月27日 20:37 | TrackBack
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