2004年05月21日

やっぱり辞書は大事

最近は国語辞典を引くことが極端に減ってしまった。もともと、文章を読んでいてうまく理解できない言葉に出会ったときや、文章作成時に使おうとしている表現が正しい意味かどうかを確かめたいときなど、辞書を引く必要は多いものだ。けれど、年を取ると悪賢くなるというか、労力を惜しむ傾向がひどくなり、できるだけ辞書を使わずにすませようとしてしまう。たとえば、読んでいる文章中の特定の言葉がうまく理解できなくても文脈からおおまかな意味を推し量ることはできるし、書くときにも理解できている表現だけを使うことで、辞書なしでもなんとかなるものだ。

そんなわけで、こうして書いているweblogのエントリーでも、表現を工夫して伝わりやすく読みやすい文章を書こうという努力は、正直いってあまりできていない。毎日もしくは数日おきにエントリーを作成し公開する上では、あまり凝ったこともしていられないというのがホンネでもある。私は文章を書くことを生業としているわけではなく、weblogも仕事ではなく趣味でやっていることだ。それゆえかける時間と品質のバランスは好きなところに設定できるのだが、明らかな間違いを犯すことは避けたいが、読者をうならせる凝った表現を工夫して用いようという気はない。

だが、「誤字等の館」を紹介したエントリーでも書いたとおり、明かな間違いを放置している文章は気になる、さらにいえば、少々不快だ。
つい先日も、ときおり見ているニュースサイトのひとつで、「修辞的」なる言葉の誤用を見かけた。この言葉は「言葉を効果的に使って、適切に表現すること。また、美しく巧みな言葉で飾って表現すること。また、その技術。(goo辞書による)」という意味を持つが、そのサイトではとある事柄を「憎悪している」と書いたあとで、「憎悪っていうのはかなり修辞的な表現だけれど」と付け加えている。これでは意味合いとしては”憎悪というのは我ながら気の利いた美しい表現だ”と自画自賛していることになってしまう。作者の意図はおそらく”憎悪とまで書くとちょっと誇張表現になってしまうかもしれないが、それほど嫌いだという意味だ”といった程度のところにあるのではないかと思う。このサイトの作者の方は雑誌記事の執筆も行うライター(兼業かどうかは知らない)でもあり、プロとしてはいささか不用意な間違いではないかと思う。文章を書いてお金を稼ぐのなら、たとえそれが気軽に更新する日記のページであっても、世に送り出して恥ずかしくない水準を保つのが矜持というものだと私は考える(その程度目くじらを立てるほどの問題ではない、と感じる方が多いであろうこともわかっているが)。

このような間違いは、決して珍しいものではない。私は上で「理解できている表現だけを使って」と書いたが、間違いとは「理解できている」と思いこんでいる時に起こすものだからだ。文章を書くとき、それなりに書けるという自信や慣れがあるほど、よく調べずに自分の物になりきっていない表現を使ってしまいがちだ。
また、極めて稚拙な文章の書き手が間違った表現を用いたとしても、読者は苦笑しておしまいだろう。だが、私などエントリーのなかで誤字や誤変換、表現の間違いをことさらにあげつらうような文章を書いており、誤変換程度ならともかく語彙や慣用句の使用ミスを犯してしまうとかなりみっともない。みっともない思いをしたくないなら、辞書をひく習慣は失ってはならないものだ。普段使っていない表現を用いる際には、念のため辞書にあたって目的とする意味や文脈に適合しているかどうかを確かめることが重要で、一度やっておけば次回からは自信を持って使い続けることができる。

手紙から電子メールへのコミュニケーション手段の変化、そして電子メール送受信の主な道具がPCから携帯電話への変化は、私たちの言葉に大きな影響を与えはじめているように思う。
私は字が下手なうえに書いている途中で面倒になって丁寧でさえなくなってしまうほうなので、ワープロの出現や電子メールによるコミュニケーションによって書く文章の量はむしろ増えた。しかし、一般的には長文の電子メールというのは読まされるほうにとっても苦痛であることが多いし、携帯電話での長文作成はそもそも難しい。メールだけでなく、掲示板の文章も略語をふんだんに使い、どんどんと短いものになっているように思われる。weblogのエントリーでも長文のものもあるにはあるが、多くの場合数行から10行程度に収まるように見受けられる。多くのサイトをリンクをたどり飛び歩きながら情報を集め、自分なりの認識を形成する過程では長文をじっくり読むというのはなじみにくいのかもしれない。
文章量が減ると同時に、表現方法においても比喩や修辞の使用が減り、直接的なものが多くなっている。それこそ”今日の会議は小田原評定”といっても通じないことを見越して言葉の起源となった事実から解説するハメになる。掲示板やweblogで使われている言葉が日本語のスタンダードに影響を及ぼすようになるのもすぐだろう。
言葉が時代と友に変わって行くのは仕方がないことで、嘆いても変化を止めることはできない。かつては読み書きの教養には漢文も含まれたが、今では漢文を返り点なしで読める人が少数派だ。比較的近い将来、夏目漱石や森鴎外でさえ、難解な文章といわれる時代が来るだろう。それでも、一人一人の書き手が辞書をひきながら文章を書くことで、変化の方向やスピードに影響を与えることはできるかもしれない。平易でありながら明快な文章を書く重要性は、用いる言語が日本語であろうと英語等の外国語であろうと変わるものではなく、コミュニケーションの基本だ。
いってみればたかがweblogや電子メールだ、いちいち辞書をめくりながら書くものではないかもしれない。しかし、日常もっともよく使うコミュニケーション手段でなければ、他にどんな手段で自分自身の言葉を育てられるだろうか。
文頭で「読者をうならせる凝った表現を工夫して用いようという気はない」と書いたものの、それくらいの意図を持たなければ私の文章力はこのまま低下し続けるのだ。体力とともに能力まで低下するのはちょっと避けたいし、文章を書くときには辞書を常に手許に備えておこうと思う。

Posted by dmate at 2004年05月21日 21:38 | TrackBack
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