2004年05月18日

滅私奉公と滅公奉私〜「公共哲学とは何か」

”あなたの嫌いな言葉”のアンケート調査を取ったとしたら、”滅私奉公”がかなり上位に進出するのは確実だろう。この言葉の向こうには、戦争遂行のために生活のあらゆる面での犠牲を強いられた時代の記憶だけでなく、会社にいわれるがままに違法行為までを平然とこなすサラリーマンの姿が重なって見える。
滅私奉公における”公”とはなんだろう。上記のイメージを想起するとき、公とは政府や会社といった組織を指している。組織全体の目標達成や成果を優先するあまり、個人の意見や幸福の追求を自ら押し殺しあきらめるさまなど、滅私奉公にはマイナスのイメージがつきまとう。もちろん、新規事業の立ち上げや会社設立など、一時的に仕事が忙しい時期に文字通り私心を押し殺して働くということはあるだろうし、それは決して悪いこととは言いきれない。だが、そんな場合でも仕事での成功が自己の達成感につながっているという点で、滅私ではない。滅私奉公の典型とみなされがちな高度成長期のサラリーマンにしても、決して個人の幸福を捨てたわけではなく、とにかくいわれるがままに動き続けることが、個人の幸福追求と重なると信じられた時代の行動様式だったにすぎないだろう。

滅私奉公(に見える行動様式)が必ずしも個人の幸福には結びつきにくくなったとき、広がったのは逆方向のベクトル”滅公奉私”だ。
すなわち、組織や地域社会、国家などの利益や問題の解決よりも個人の都合や利益を優先させ、極端にいえば「自分以外はどうでも良い」という行動様式だ。”ミーイズム”あるいは”ジコチュー”と表現した方がわかりやすいかもしれない。この場合の”公”は、会社や国家などの組織を指すだけでなく、”自分とその周囲以外の全て”が含まれると考えて良いだろう。卑近な例では電車内での携帯電話による通話、指定日以外のゴミ出し、駅前の放置自転車など、社会を住みよく保つためのルールや規制(場合によっては法律さえ)を自分なりの理屈で無視する行動は、滅公奉私の表れともいえる。
人の行動を規定するさまざまな事象を、全て「公−私」の二元論に振り分けてしまった場合、滅私奉公の反動として滅公奉私が選択され、結果としては”誰もが我慢をし続ける、誰にとっても住みにくい社会”が出現するのは、必然ともいえる。公の論理は個人を圧殺するものでしかないとすれば、あらゆる”公”を否定し、”私”を行動原理にするしかない。

私が二元論を嫌うのは、それがこのような粗雑な結論に人を導くからだ。
前回のエントリーでも書いたが、日本型組織における”上司”はアマチュアでダメな”サラリーマン”、グローバル企業の”ボス”はプロフェッショナルの”サラリーパーソン”などという粗雑な二元化を認めた途端に、私たちの思考は停止しだれかにとって都合の良い結論を受け入れ始める。
公私二元論は、結局のところいずれを採用しても私たちの社会を良くしてはくれない。人が生きる社会は、公私に分離できるものではなく、多層的なものだからだ。現実に多層的な社会を無理に二分すれば、私と私との対立を産み出すのは当然のことだと私は思う。
私たちに必要なのは、安易な二元論に逃げ込んで自分にとって都合の良い論理を振りかざすことではなく、多層的な構造を認めてそこに生きるための思考と行動を見つめることではないだろうか。
本書によって概説される「公共哲学」とは、”公と私の間”にある多層的な構造としての”公共”を、私たち人類がどのように認識し、取り扱ってきたか、そしてこれからどう考えて行くべきかを取り扱うものと理解できる。

哲学と思想史については高校の倫理社会程度の知識しか持たない私にとっても、本書に取り上げられた思想家たちのうち、近世までの名前は親しみ深いものばかりだ。また、それぞれが主張した人と社会の関わりに関する思想についても、おおむね基礎教養の範囲内にあるものといって良いと思う(ただし、今は高校に倫理社会という教科はなくなっており、こうした人類の思索の歴史がどのように教えられているか、私は知らない。もしかすると、基礎教養とはいえないのが実態かもしれないが)。20世紀に入ってからの名前と思想については知らないものもあったが、解説は難解ではなく、きちんと読めば概要を理解することができる。
こうして公共哲学という一本の串を通して全体を見通すことで、公と私の関わる空間としての公共(その現れとしての社会や国家)が思想史の主要な柱のひとつであったことが理解できる。ことに、ギリシア哲学や社会契約説以降の西洋哲学において、国家とは何であり、個人と国家はどのように関わるべきかは主要テーマであるといっても良いのかもしれない(これらの思想について体系的に学んだわけではなく、本書を読んでの印象にすぎないが)。

公共を考えることは、他者を考えることでもあると思う。電車内での化粧や携帯電話による通話、あるいは街中でのたむろなど、昨今”私の空間”をそのまま自宅や自室の外に持ち込む行動が若者を中心に見受けられ、教育の欠如にその原因を求める声が大きい。
学校だけでなく、親による躾の問題は確かに大きいと私も思う。だが、その躾ができない理由は、親たち自身も社会を”公−私”の二元論で見る習慣を身につけてしまっているからではないだろうか。自己と他者との間に分かちがたい壁を立てることを、自己の確立や個人の尊厳といった言葉で無批判に受け入れてしまったのではないかと思える。
かつて私たちの祖父母たちを蹂躙した”公”の暴力を否定するためには、それはやむを得ない抵抗だったかもしれない。今でも、滅公奉私の行動原理の弊害を叫ぶ者の多くが日本の伝統(といっても、それはたかだか明治から昭和20年までの100年にも満たない期間のものにすぎないのだが)を賛美し、戦争に散った祖父母たちの行動を全肯定し、さらには国家主義的な愛国心へ人々をあおり立てるさまを見るにつけ、安易に”公”の重要性を主張するのは難しい。二元論の間を揺れ動く限り、より危険度の少ない滅公奉私を選択するのは間違いとは言いきれない。
しかし、その結果として私たちの社会がどのようなありさまになっているか、私たち自身がよくわかっている。
本書の最終章は、「グローカルな公共哲学にへ向けて」と題して、”滅私奉公”でも”滅公奉私”でもない、”活私開公”の行動原理に基づく公共哲学の方向を提案する。それは二元論に陥ることのない、『応答的で多次元的な「自己−他者−公共世界」』論に基づく新たな展開とされるが、この根底にあるのは相互承認とコミュニケーションであるように私は思う。多様性を受け入れることは、二元論を超えて多様な自分自身をまず承認し、多様な他者を承認することに他ならない。
インターネットは個人のコミュニケーションの幅と深さを大きく広げる可能性を示している。だが、今ここにあるのは多様性の承認ではなく、多様な現実を前に狭い同質性を探し求める人々の姿であるように感じられる。現状をリアルに認識し、そこから理想に近づく道筋をどうとらえるのか、私たちの宿題はまだまだ多いようだ。

 公共哲学とは何か
 山脇直司 著
 ちくま新書

Posted by dmate at 2004年05月18日 20:39 | TrackBack
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