店頭で見かけて気になっているものの、つい買いそびれている本というのがある。光文社新書の「イタリア人の働き方」もそのひとつで、発売から2カ月ほどの間に3〜4回ほど手にとっては棚に戻すということをしていた。
そうこうしているうち、このエントリーに対して、私の行きつけ(というのも変な感じだが)のweblog「blog::TIAO」のMAOさんからいただいたトラックバック記事に、紹介が載った。MAOさんが通う書店でご主人のお勧めだという。さっそく、会社近くの書店で購入し、読了した。
ここでは靴磨きからパパラッツィまで、15人の仕事が紹介されている。個人の開業や親の仕事の後継といった差はあるが、いずれも自らやりたい仕事を選び取り、雇われ人ではなく事業主として就業する人々である。職種もさまざまだが、不思議なことに私がイタリアでの仕事、と聞いて真っ先に思い浮かべるデザイナー(インテリアにせよ、工業デザイナーにせよ)は登場しない。
すべての人々に共通するのは、利益のために働き、会社を経営するのではないという点だ。中でも後半に登場するカシミア製品の製造メーカーの会社経営目的は「人間としての尊厳を保つこと」なのだ。他の登場人物も同様で、金銭を得るためではなく、良い仕事をして自分の人生を楽しみ、家族とともに過ごすために働く。仕事を評価するのはまず自分自身であり、目の前のお客だ。
まえがきにはイタリア人は生きるために働き、日本人にはその逆が多い、といった表現がある。これは必ずしも個人としての日本人には当てはまらないように思うが、会社の目的がただ利益のためになってしまっているのは事実のように思われる(会社というものは自己の存在自体が目的化するものだ、という指摘はあろうが)。
アメリカの価値観が世界の価値観であるかのように喧伝され、株主重視の期待収益(すなわち資本の調達コスト)を上回る利益を上げるのが企業の価値であるといった、極めて即物的で拝金主義的な思考が大手を振ってのし歩いている。そこでは「どんなサービスや商品でお客に喜んでもらうのか」という仕事の原点は、利益を左右する変数に置き換えられる。いわく、顧客満足度、顧客維持率、顧客ロイヤルティ、といった具合だ。金のために存在する会社で金のために働くがゆえに、私達の多くは仕事に誇りを持てず、その質はどんどんと低下して行く。
もちろん、利益を生み出せない会社は市場からの退出を余儀なくされる。顧客が望む価値を提供し、評価されて対価を受け取り、利益を上げるのことは絶対に必要なことだ(ただし、本書には金銭での対価をそもそも受け取らない職業も、登場している)。
だからこそ、そこでは仕事をする自分自身と従業員の生活と、なすべき仕事とのバランスをどこに求めるかが不可欠だ。本書に登場する企業は市場を独占する超優良企業ばかりではない。むしろ、自分たちの知恵と技術と熱意で自分自身の居場所を定め、そこでしっかりと地位を作り上げた企業ばかりだ。
高度成長と何度かの調整を経た後のバブル景気に踊り、長期の低迷にあえぐ中で、多くの企業がバランスを大きく崩しているように思える。市場の評価とはライバルよりも1ポイントでも大きいシェアであり、あるいは株価の上昇である、と見なす行動原理が私達を覆っている。なんのことはない、高度成長期の価値感にアメリカ伝来の拝金主義を接ぎ木しただけではないか。
行き場を間違えた危機感は、仕事場においては問題を先送りして短期的な利益を刈り取らせ、リスクのあるイノベーションよりも他社追随を選択させているし、生活においてはただただ不安感から消費を押さえ、あるいは正しく物事の価値を量り評価するモノサシを狂わせている。
何のために働くのか、自分のこととして見つめ直す癖をつけよう。そして、その答えは一人一人違うのだという前提に立って、仕事や事業を定義し直そう。
出世して多くの部下に号令を発するために働く、という人がいてもかまわない。競争に勝つことだけが価値だと考えるのもいい。大切なのは、その価値感では部下も同僚も顧客も、そしておそらくは家族も共感はしないと気づくことだ。
「自分の人生の<経営者>にな」ることは(本書8ページ)簡単ではないが、だれにも可能なことだ。リストラにおびえ萎縮していきるのではなく、自分自身の経営者となる可能性を引き寄せる戦略と戦術を、追い求めるべきなんじゃないだろうか。
イタリア人の働き方〜国民全員が社長の国
シルヴィオ・ピエールサンティ、内田洋子 著
光文社新書
同じ日に、同じ本を読み、それの記事を書いたということは奇遇ですね。
「人生はイタリア人に学べ!」
元気になりましたよ。