@niftyが、Nifty-Serveとして運営してきたパソコン通信サービスの「TTYフォーラム」を全廃すると発表した。
私がNiftyの会員となったのは1989年か90年頃。当時のパソコン通信における最大の魅力は、数多くのフォーラム(特定のテーマに沿った電子会議室群)にあったといって良く、いくつかのフォーラムに登録した。雰囲気に合わずに読まなくなったものも多かったが、あるフォーラムではSysOpグループと呼ばれる運営スタッフの一員にもなった。私の20代の少なからぬ時間は、Niftyのフォーラムとともにあったといえる。
そのフォーラムに静かに幕が引かれようとしている。
私にとってのパソコン通信は、いまインターネットを通じてWEBサイトを閲覧するのとはかなり違ったものだ。単に閲覧し、無料の情報源として”利用する”のではない、電子会議室に参加してのコミュニケーションが前提にある”参加する”メディアだった。
独身寮に帰ると、まずPCの電源を入れて登録しているフォーラムの通信ログを取得し、オフラインで読みながらコメントを書き、推敲して就寝前に自動でアップロードするのが私の日常だった。出張時にもリズムが狂わないよう、モデムは小型で乾電池駆動できるものを選んだ。
週末に起きて最初にすることもまた、Niftyへの接続だった。通信ログを読みながら徐々に頭がスッキリとしてくると、ようやく洗顔やら食事やらといった活動が開始できた。依存症とまでは言わないまでも、生活のかなり重要な部分にフォーラムが居座っていたのは間違いない。
TTYフォーラムがなくなるといっても、フォーラムそのものが絶滅してしまったわけではない。Nifty-Serveのフォーラムの多くは、現在もWEBフォーラムに形を変えてサービスが続けられている。
しかし、そこからはすでに、私が寝る間を惜しんで参加した頃の活気は失われているといって良い。いや、むしろ場の活気が失われたというよりは、私自身のコミットメントが失われたといった方がよいのかもしれない。場は依然としてあり、参加者自身がそこへどのようにコミットするかによって活力は生まれも失われもする。
とはいえ、かつていちテーマいちフォーラムとされていた頃と比べ、私たちはいくらでも代替手段を持ちうる。WEBフォーラムはオンラインコミュニケーションに置いて唯一の存在ではないし、主たる存在でもない。
同時に、匿名性の増大と年齢を問わないユーザーの拡大は、オンラインコミュニケーションにまつわる煩雑さを拡大してもおり、場の多様性も拡大している。
Nifty-Serveに関していえば、自己名義のクレジットカードを持つことが入会条件であったために、少なくともコミュニティに子供が入ってくることはまれだった(時折あっても、極めて少数であるがゆえに場違いな言動は取れなかったように思う)。
通信事業者が各メンバーを特定できることから、そこでの匿名性は極めて限られたものだったし、フォーラムの中には実名での参加を奨励するところも少なくなかった(私自身がコミットしていたフォーラムでも、テーマの特性から多くの参加者は詳細なプロフィールを公開していた)。それでもフォーラムを渡り歩き、複数のIDを使い分けてトラブルを繰り返すものが皆無だったわけではないが、全体としては”小さくて平和な街”であったことは確かだ(それでも著名フォーラムには数万人の登録者がおり、決して少数の閉じた世界であったわけではない)。
一時期無料のメーリングリストサービスが隆盛を極めたが、インターネットを使いながらもある程度閉じたコミュニティを求めるユーザーは決して少数ではなかったのだろうと思う。
私は必ずしもオンラインコミュニティに子供が参加すべきではないと思っているわけではない。一律に年齢で区切ることは危険だとも思う。
だが、大人と子供とは違う。さらにいえば、大人とされる人々にも、コミュニケーションの方法が子供と変わらぬものは少なくない。金を支払って電子会議室に参加する意思はなくても、無料の掲示板で放言するのは簡単だ。インターネットという場はこうした大人と子供を無理矢理同居させるものになってしまっている。
誰でも出入りが簡単でコミュニケーションの規範も緩やかな場を望む者もあれば、”身元の確かな”メンバーとの交流を望む者もいる。ソーシャルネットワークサービスなども、後者の要望が形になったものだろう(私はいずれのサービスにも参加していないのだが)し、weblogの流行もまた、コミュニケーションの規範を自分の側に一度引き寄せたいという発信者の欲求によるものだろう。
ソーシャルネットワーキングがパソコン通信に変わる、”身元が確かで””場へのコミットメントの意志を持つ”メンバーによる場に育っていくのかどうか、そこへ参加したことがない私には判断はできない。
しかし、形はどうあれかつてNifty-Serveのフォーラムが占めていた地位を何らかの場が引き継いでいくことは必要なことだと思うし、ビジネスとしての成立可能性もある。場の信頼度など、参加者自身が創るもので、企業が単純に提供したからといって受け入れられるものではないと思うが、新たな発想によるコミュニティが登場する余地があるのは、間違いないと思っている。