2004年11月02日

リニューアルは、難しい

しばらく海外にいたこともあってweblogの更新も止まってしまった。
さて、数週間ぶりに日本の書店を覗いて文字通りのけぞった。新書コーナーに見慣れない極彩色の背表紙がズラリと並んでいるではないか。いったいどこの悪趣味な出版社が新書参入したのかと思いきや、なんと講談社現代新書のリニューアルなのだった。
もともと、私には新書といえば岩波、中公、そして講談社の現代新書とブルーバックスという思い込みがある。これら3社は私の中ではやはり別格だ。このところの新書ラッシュと、その割には市場全体はそれほど伸びていないという環境下で、おそらく部数の伸び悩みが顕著だったのだろう。WEBサイトによれば、創刊40周年の節目を迎えての33年ぶりのリニューアルだという。

このリニューアルに関する文章がまた情けない。「世の中は大きく変わろうと」している現れとして引き合いに出されるのは、「従来では考えられないような事件が連日のように起き」「二大政党はともに憲法改正を論議し」「巨人戦の視聴率は低迷し」「選手会の奮闘にファンは快哉を叫び」なのだそうである。この、一人のサラリーマンが夕刊紙を読んで感想を述べているような時代認識の貧しさは、いったい何なのだろうか?
もちろん、凶悪な犯罪も憲法の改定論議も問題には違いない。しかし時代というのはいつだって変化しているものなのに、ことさらにこの程度の夕刊紙ネタを持ち出して2004年という今が特別な曲がり角であるという証拠になどなるまい。
読売巨人軍の人気など大多数の人々にとってはどうでも良いことだし、プロ野球選手会の行動に快哉の声を上げたのは、つまらぬ失言のために自らを追いつめた権力者への反感の表れに過ぎない。
この程度の時代認識の上で、「そんないまだからこそ、新書の出番なのです」などと威張られても、出てくるのは週刊誌の記事を水増しした程度にしか感じられないのは私だけだろうか。

おそらく、本の作り手とは別のところで、下手な商売人が広告代理店にだまされて安易なリニューアルが行われたのだろうと思わされるほどだ。
考えてみよう、この悪趣味な彩りの書籍が私たちの書棚にガヤガヤと騒がしく並ぶ光景を。カバーを取り払いたくならないだろうか。書店の店頭でもしかりだ。もともと新書参入ラッシュのおかげでにたような背表紙が増え、本の作り手の個性が見えにくくなってしまっているところへ、”目立てば何でも良い”とばかりに品のない姿をさらす現代新書。
世界史のさまざまなトピックをとりそろえ、一方で最新の経済や経営にも強さを見せていた現代新書を好んでいた私にとって、すでに何度も読み返した本が似合いもしない派手なドレスを着込まされている姿を見せられるのは、出版不況という言葉が遂に私の趣味の領域までを汚染しはじめたかの実感を強くするものだ。

もっとも、このWEB上の文章の軽薄さや上滑り加減と、新刊として登場したラインアップにはまだかなりの差がある。これは大きな救いだ。
あの下品な表紙カバーは読んでいる間は気になるまい。背表紙を見るのは電車で私の前に座っている人物であって私ではない。
しっかりとした内容の本が登場する限り、私は講談社現代新書を買い、読み続けるだろうと思う。しかし、この下品なリニューアルを画策した者たちが、本の内容にまで口を差し挟みはじめたなら、私の愛してきた現代新書は、そのときこそ私から離れていくのだろうと思う。
定番商品のリニューアルは時に必要だ。しかし、店頭で目立てばそれだけで売れ行きが増すほど、世の中は単純ではない。出版業界はようやく他社並みのマーケティングに手を染めはじめたのだろうが、化粧を変えただけで成功するほど単純なものではないことを知るまでに、さらに失敗を繰り返さねばならないのだろうか。

Posted by dmate at 2004年11月02日 22:26 | TrackBack
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