2004年09月18日

ルールではなく自然体で

昔、といってもほんの10年くらい前、電子メールや掲示板といえばパソコン通信を指していた頃、特定テーマごとの電子会議室の集合体であるフォーラムの運営者にとって、”どこまでローカルルールを作るか”がひとつの悩みどころだった。
まったく定めなければパソコン通信事業者の規約だけがルールとなるが、規約がきちんと読まれていないケースへの対応や、各フォーラムの事情によって、まったくゼロというわけにはいかなかった。一方で、事細かくルールを作り、コミュニケーションを阻害するようなものにはしたくないという感覚も、かなり共通したものだったと思う。
当時から大手パソコン通信以外にも草の根BBSが多く存在していたが、個人が思い立ってすぐに掲示板や電子会議室のサービスをもつことは難しかった。あるテーマについて話したいと思えば、それを扱うフォーラムを見つけて入会するのが近道だったので、自然と雑多な考えをもつメンバーが集まり、諍いを防ぎながら活発に議論をする知恵が共有されていったように記憶している。
今や、掲示板を個人で運営することは極めて簡単、weblogというコミュニケーション機能を組み込んだWEB構築の仕組みも気軽に使えるようになり、いわばだれもがコミュニティを形成でき、コミュニティ同志が緩やかにつながることでさらに拡大している。これは、パソコン通信のような限られた場において発達した知恵の有効性を大きく後退させもした。

「彰の介の証言」にてトラックバックを分類した記事が、「週刊!木村剛」で紹介されていたので読んだ。
さまざまなトラックバックの姿をうまく分類したものだと感心したのだが、こうした分類が出てくるのもまた、weblogという場でのコミュニケーションの姿がまだ定まっておらず、スタイルの違いがすれ違いや衝突の原因にもなっている現状の表れなのだろうとも感じられた。

パソコン通信は、特定の業者にクレジットカードの番号を通知して契約して初めて利用できるものだっただけに、完全な匿名性は確保されない場所だった(もちろん、事業者は個人情報をきちんと保護していたが、情報を登録しているということ自体がメンバーにとっては一定の歯止めとなっただろう)。
会議室で発現するには必ず自己のユーザーIDを表示せねばならず、全くの”名無し”でメッセージを掲示することはできない。運営者にはユーザーID削除という権限もあり、他の発現場所を見つけることも容易ではなかったので、放っておいてもそれなりに秩序だった場になっていた。それを窮屈と感じるかたも多かったろうし、事実、運営者のコントロールがうるさすぎてコミュニケーションを楽しめない場もあった。

パソコン通信とWEBとの大きな違いに、前者は他者との双方向のコミュニケーションを前提とした発信であったのに対して、後者は必ずしもそうではないことがある。
パソコン通信でも、対話を拒否するような独り言を書き続けるメンバーがいたことは確かだが、電子会議室という性格上、発したメッセージには何らかの反応を受けることが前提になる(もちろん、誰も興味を抱かなかった場合には放置されるが、放置という行為がそのメッセージへの評価でもあった)。一方でWEBはかならずしもコミュニケーションを前提とはせずに、一方的な情報発信を可能にするものだ。
weblogにはコメントやトラックバックなど、コミュニケーションツールとしての機能が組み込まれてはいるが、その機能を止めることも可能で、事実いずれかまたは両方を受け付けていないものも多い。いわばコミュニケーションのあり方の自由度が大きく高まっているといえる。
しかし変わっていないのは、メッセージの発信の仕方や内容が、コミュニケーションへの姿勢をかなりダイレクトに表現するものだ、ということではないだろうか。

weblogが急速に普及し始めてまだ日が浅い。
トラックバックという、一見わかりにくい機能を巡ってはなんらかのマナーを共有すべきなのか、あるいは使う側の判断に任せるべきなのか、当面議論は尽きないだろうと思う。
私自身の考えでは、トラックバックをどのように使うかは、使う側の判断に任せておけばよいと思っている。
トラックバックを発信することは、その行為に対する評価を他者にゆだねるということでもある(これは、電子会議室に発信したメッセージに反応があるかどうかは、発信者の積み上げた信用とメッセージそのもののできに依存するのと同じ構造だ)。
無関係な記事でトラックバックをすれば、単なるアクセス数稼ぎにやっきになる人物と判断されるだろうし、トラックバック記事でのリンクを当然と考える相手にリンクなしのトラックバックを発信すれば、失礼なヤツだと思われるだろう。それらは発信側の責任ということにしておけばよいのではないだろうか。
もちろん、人に嫌われたりバカだと思われたくないから、注意しておくべき項目がどこかにまとまっていて世の中に共有されていれば楽であることは確かだ。けれど、コミュニケーションのスタイルが千差万別なのに、こうした”共通マナー”が実用的なレベルで成立するとは思えないし、仮にそれができたとしても、他人が作ったマナーやらルールで自己の行動を律するという姿勢は判断力の放棄じゃないかと私は感じている。ルールはそこからはみ出す者を排除するだけでなく、抵触せずに問題を引き起こす者への監視を呼ぶ。ルールがまたルールを呼び、気がつけば実に不自由な空間ができあがっているに違いない。
自戒のために一定のマナーやルールを座右にとどめることは、むしろ素晴らしいことだと感じるが、それはあくまでも自分にとってのマナーなのだと理解しておくことも必要ではないだろうか。

それでは無法地帯になってしまうではないかという反論もあるだろう。その通りだ。
たとえば私たちが30年前にタイムスリップしたと仮定しよう。1970年代の喫煙マナーを現在の私たちは受け入れられるだろうか? 私自身は絶対に無理だ。電車内だろうが病院だろうがところかまわず吸い放題、吸い殻はどこにでも放り投げて良い、そんな社会に私は戻ることはできない。けれど、それは当時の常識であり、多くの人々によって容認された行為だった。私にとっては無法地帯そのものだ。分煙化や公共の場の禁煙化、あるいは吸い殻の始末を吸った本人に求めるという変化は、一部の行儀の悪い喫煙者にとってはどうあれ、極めて健全な感覚が育ってきた結果だと私は思う。
オンラインでのコミュニケーションには、たった10年か15年程度の歴史しかない。これほどの広がりを見せてからだと10年にもならない。私たちの行動を律する経験も、それしか蓄積されていないということで、そこで無理矢理にマナーを定めてみても、受け入れられはしないだろう。

もっとも、マナーを呼びかける行動を否定するものではない。
よりよいコミュニケーションのためにどんな努力ができるか、何をすべきで、何をすべきではないのかを考え、議論を起こす方々なしには、知恵の積み重ねは起こらない。こうした議論があちこちで発生していること自体が、オンラインでのコミュニケーションの健全さを保つ。自分はこう思うから、トラックバックはかくあるのが望ましい、という主張だからこそ、当該記事はたくさんの関心と共感を呼び、反応を得たのだろう。
私は上述したとおりの意見なので、必ずしもトラックバックの際に相手記事へのリンクは書かない。記事に必要かどうかで判断をしている(私の記事を最初に読んだ読者に関連する情報をたどって頂きやすいように、という理由でリンクすることが多い)。
マナーやルールはだれかが決めるものではない。ひとりひとりがよりよいコミュニケーションのために何が必要で、何が必要でないかを判断することで徐々に生まれていくもの。そのプロセスを経ることなしに、人の関係が成熟していくことはないのだと感じる。

Posted by dmate at 2004年09月18日 12:15 | TrackBack
Comments

彰の介と申します。
トラバありがとうございました。
とりあえず、多くの方への押し付けにはならなくて安心しました。そして多くの方が以外に寛容だということもわかりました。
そんなことで、今後もよろしくお願いします。

Posted by: 彰の介 at 2004年09月18日 16:08
Post a comment









Remember personal info?