2004年09月17日

判断したつもり、選択したつもり〜「<私>の愛国心」

教育基本法の改定論議など、このところ「愛国心」にまつわる話題が多い。数年前に「新しい歴史教科書をつくる会」による日本史と公民の教科書が検定を通過したときにも、メディアでは大いに報道され、その内容についての批判(と、私の記憶では少数の賛意)が表明された。現実に当該教科書によって授業を行う学校は極めて少数で、おそらくこの教科書が日本中の教育現場で採用される可能性は当面は低いだろう。
しかし、一方では「心のノート」という、教科書ではないために検定などのプロセスもさしたる議論も経ずに教育現場に広く行き渡り、使われはじめている教材が存在している。文部科学省が進める施策だけに、「つくる会」の教科書よりもはるかにスムーズに、かつ効果的に浸透しているように思われる。さらには「愛国心」を盛り込んだ教育基本法の改定論議など、徐々に堀は埋められつつある。

私が気持ちが悪いのは、「愛国心」などという定義の極めて曖昧なものが”あって当然”とばかりに取り扱われ、しかも多くの人々がそれを受け入れているように思われるところだ。
自分の生まれ育った土地や風物に愛着を持つ人は多い、そこに暮らす人々との共同体を平和に保っていきたいという気持ちをもつ人も少なくないだろう。ただし、その素朴な感情を突然日本全体という規模に広げられて、果たしてどれほどの人が実感を伴って愛着を語れるのだろうか。同時に、その感情を日本から外へ広げない理由はなんだろうか。

私は東京圏とは気候風土がかなり違った土地に生まれ育った。このため、たとえば”美しい日本の四季”といった番組を見ても、自分が暮らす土地とはずいぶん様子が違うことを常に意識してきた。大学を卒業していくつかの土地に住んだが、私のふるさととは気候条件も風景も言葉も、そして暮らす人々の行動様式やしきたりなども、まるで外国のように違っている。
こうした違いをいとも簡単に無視して、日本人として日本を愛する、といった価値観を提示されても、私にはとまどうことしかできないのだ。
たしかに、日本人として生まれ育ってきたわけだから、外国と比べれば日本のほうにより愛着はある。オリンピックやワールドカップで日本の代表選手が活躍すれば大変に嬉しいし、日本企業の製品が海外でも評価され売れているのを知れば誇らしくも思う。その程度の日本という集団への愛着心ならば、もちろんもっているのだ。

先に愛国心について定義が曖昧と書いた。
たとえば、太平洋戦争の時期において「愛国心」とは、命を投げ出して戦争に参加し国益を守ることを意味しただろう、”天皇陛下のために死ぬ”ことが愛国心だと思っていた方も多かったことだろう。
けれど、こんな意味での愛国心を今さら持ち出されたところで、実感があろうはずもない。仮に日本政府が石油資源への利権を求めて中東諸国への自衛隊派遣を拡大したとして、それを支持するのが愛国心だろうか? 愚かな行為はやめよと引き留める愛国心もあるはず。
個々人がよく知る郷土への愛着をそのまま国全体に拡大することが無理ならば、愛着の発現の姿を決めてしまうのもやはり無理なのだ。
「心のノート」は国を愛する心が大切だと説く。しかし、国の愛し方など多様だ。国立競技場のスタンドでサッカー日本代表に声援を送るのと同じように日本政府の行動をサポートすることを期待できようはずもない。

しかし、こうした実に曖昧な「愛国心」を、比較的あっさりと受け入れてしまう人々がいるのも、また確かなようだ。
かつては改憲を口にするだけで右翼の国家主義者とのレッテルを貼られるものだから、改憲の主張はあまり表だったものではなかった。愛国心についても同じだ。それがどうだろう、むしろ憲法第9条を守れと主張するのは”平和ボケ”の”左翼”であるかのようだ。多くの人々が、左翼と名指されることを恐れているように思える。
自衛隊の海外への派遣にしても、あるいは改憲論議にしても、さしたる関心も持てぬままに漠然と提示された理由を飲み込んでしまい、”確かに国際貢献は大切””身近に危険な国が存在するのだから”といったぼんやりとした感覚のまま受け入れてしまうことを、果たして判断と呼んでいいのだろうか。
改憲の必要性を叫ぶ人々の多くが、日本を”普通の国”にすべきだ、といい、それを妨げているのが”押しつけられた憲法”や”自虐史観”であるという。こんな論調をフンフンと頷いて聞いているうちに、既成事実は積み上げられ、教育現場では子供たちの判断力を奪い取るような奇っ怪な教材がばらまかれる。

たしかにナショナリズムが太平洋戦争時期のような形で私たちを支配することは考えにくい。しかし、私たちが判断を放棄することが、結果として戦前とは違った形でのナショナリズムの台頭を招きかねないことは意識しておくべきだと思う。
国際貢献と称して軍隊を海外に派遣することや、近隣国の不気味さをことさらに報道して仮想敵を作り出し強硬策の世論形成をすることが、本当に目の前の問題を解決する適切な手段なのか、自分自身の判断を積み重ねることを放棄すべきではない。
自分が考え、判断した結果、”左翼”だのと呼ばれるならそれでいいだろう。本当に関心がないから口を閉ざすのなら、やむを得ないかもしれない。けれど、なんとなく流れに身を任せ、関心がないにもかかわらず大勢に従って賛意を表明するのは世の中を決して良い方向には導かない行為だと私は思う。

本書について、著者は”最後のお願い”だと書いている。
自分自身の問題への個々の判断力を失えば、私たちの社会の判断力も鈍る。それが民主主義社会だ。個々人の社会への関わりや判断力の低下を目の当たりにして、著者が感じる恐怖心は非常に健全なものだと私は思う。

 <私>の愛国心
 香山リカ著
 ちくま新書

Posted by dmate at 2004年09月17日 21:40 | TrackBack
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