2004年08月06日

いささかテクノフォビアでは?〜「安心のファシズム」

本書で指摘されている、憲法や教育基本法を巡る昨今のきな臭い動きは、戦後ずっと続いてきた復古調の改憲への言論とは、少し違っている。それは明治への直接的な回帰や、帝国主義的な拡張主義・覇権主義を正面に押し出すものではない(もしそうなら、あっという間に反対に遭い葬り去られるだろう)。むしろ、家族やふるさとへの愛着、公共心、そして社会への参加や環境保全など、多くの人々が共感するテーマから「国を守る」「国を愛する」方向へと徐々に人々を追い立てていく。
学校教育の場で、まさにこうした意図を持った「心のノート」が導入されていることの危険性は、「心を商品化する社会」「教科書が危ない」などに詳しく、このweblogでも採り上げてきた。私が気に入らないのは、家族や郷土に対する愛情といった、誰もが否定しない価値を巧妙に「国家」という権力への忠誠に置き換えようとするやり口だ。堂々と「国家に忠誠を誓わぬ者は非国民だ」と宣言してみろ、といいたくなる(それはほとんどの日本人には受け入れられない価値観だとわかっているから、小狡い手を使わざるを得ないのだが)。

私は新宿には日常的にでかけるが、歌舞伎町に足を伸ばすことはほとんどない。渋谷にもできるだけ近づかないようにしているので、監視カメラが導入されて以来、これらの街がどのように変わったのか実感としては知らない。
知らないからこそ、カメラ設置後に凶悪犯罪がこれだけ減りました、といわれるとフンフンと納得してしまう危険性も持っている。私は生まれてこのかた喧嘩には勝ったことがない(というより、殴り返したことさえほとんどない)ほどの”腰抜け”なので、10代20代の男がなぜか5人6人と群れ集って歩く光景は嫌いだ(もちろん、女が何人か混じっていても同じだ)。特に害意がなくても、街角に屯されるだけで私は十分に不快になる。
街中の監視カメラがそれほど抵抗感なく受け入れられるのは、誰もが繁華街では大小の暴力に被害者になる危険を感じているからだろうし、監視されるのは自分のような”普通の市民”ではなく、”暴力団の構成員やら定職にも就かずにフラフラしている若者やら外国人のマフィア”だから問題はない、ととらえているということだろう。実際、私もそうなのだ。

監視カメラがあちこちに設置され、その情報が公安によって日々蓄積・分析されるとしたらどうか。ユビキタス・ネットワークを通じて誰がいつどこへでかけてどんな買い物をし、どんな本を図書館で借り、誰と会っていたか、巡回しているWEBサイトはどこで、授受している電子メールの内容はどんなもので、携帯電話のメモリにはどんな電話番号が登録されているのか、そのような詳細な個人データが結びつけられて私生活が丸裸にされるとしたら。
確かにぞっとする話だ。自民党だけでなく、近頃支持を伸ばしている民主党の中にも、驚くほど前時代的で反動的な”日本人像”を実現するために活動している議員がおり、実際に文部科学省が「心のノート」のような欠陥品による教育を推し進めている現状を見ると、「1984年」の管理社会がすぐそこまでやってきているかのような感覚に襲われる。

けれど、そのような恐れで自動改札や携帯電話に警鐘を鳴らし、使用を拒否し、あるいは無線ICタグの利用に反対するだけで、世の中は良くなるのだろうか。”ファシズムの到来を防ぐ”ことができるのだろうか。
私は、こうしたテクノロジーが全て権力による管理社会構築のために周到に準備されているかのような、過度な警戒心はなんの役にも立たないと思う。いってみれば、それは”自分の行動を人に決められるのはなんとなく嫌だ”という真情を吐露しているに過ぎない。
テクノロジーは人々の自由を制限し、管理する用途にも当然使える。そして私たちの多くが、個人の情報が自分の知らないところで管理・蓄積され利用されることへの漠然とした不安感を持っている。「住宅基本台帳ネットワーク」が導入された際には、その不安感を後押しするかのように不正アクセスによる個人情報の流出や、その悪用といった負の側面が強調された。

監視カメラが増えることは確かにプライバシー保護の面で不安材料だ。これが犯罪の抑止につながるかどうかという検証をしっかりとしないと、税金の無駄使いにもつながる。
それが仮に有効だったとして、プライバシーの侵害を防ぐためにどのような運用をすべきか、どこにどんな歯止めをかけるかという議論をすることが本来の姿だ。推進側が”議論を尽くした”という形だけを整え、制約なしに運用することだけを目指すとするなら、それを押しとどめるにはより多くの共感を集めうる運動が必要だ。それは、カメラに対するアレルギーにも似た拒否反応ではないと私は思う。
携帯電話や自動改札にしても同じだ。本書の著者の姿勢は、自分一人が管理社会に取り込まれるのを拒否して社会の外側からその危険性をさけんでいるもの。それは優越感や特権意識と紙一重のものだと私には思える。”この危険性に気づける私が、人々を啓蒙しなくては”といったところか。
一方で、無線ICタグやユビキタス・ネットワークがもたらす恩恵にも期待する私にとっては、著者の言動はテクノフォビアにしか見えない。自分が理解できないものや、なんとなく嫌なものをファシズムやら管理社会に結びつけ、勝手に妄想をふくらませて叫んでいるかのように感じられるのだ。

本書の指摘には、共感できる点も多いものの、全体としては本当に危険な動きと、それに利用される可能性のあるテクノロジーとをごちゃ混ぜにして、とにかく管理社会につながるもの全てを拒否してしまっている。この主張では、世の中が動くとは思えない。
私たちを取り巻く社会のネットワーク化、情報のデジタル化はこれからも後戻りせずに進む(後戻りさせたければ、私たちは今の豊かな生活を相当程度手放す覚悟をせねばならないだろう)。その方向から危険な因子を取り除くべく、今も多くの人々が努力をしている。それに協力するのではなく、テクノロジーの利用を権力の手先と決めつける態度は、ずいぶんと古くさいものに映る。

 安心のファシズム〜支配されたがる人びと
 斎藤貴男 著
 岩波新書

Posted by dmate at 2004年08月06日 23:37 | TrackBack
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