先日読んだ『「こころ」を商品化する社会』でもその問題が指摘されている「心のノート」についてまとまった論評を求めていたところ、タイミング良く岩波新書から本書が刊行された。
残念なことに、「心のノート」だけを集中的に取り扱ったものではなく、前半部は数年前に話題となった「新しい歴史教科書をつくる会(以下、「つくる会」)による歴史と公民の教科書にページを割いている(ただ後で述べるように、この教科書の問題点について継続的に言及し続けることは重要だ)。
前半では、話題になった「新しい歴史教科書」「新しい公民教科書」の記述について、その著しい偏向ぶりを批判的に取り上げている。
本書で紹介されている範囲だけでの判断はアンフェアかもしれないが、事実と神話、そして驚くことには”創作”とさえ表現できる記述が交じり合って、”正しい歴史”が語られている。公民も同様で、たとえば阪神大震災の際に活躍した民間ボランティアや各企業・団体、あるいは各種公務員の努力を全く無視して自衛隊の貢献だけを取り上げ、国を守る役割の貴さを印象づけるくだりなどは、子供たちに”自分にとって都合の悪い事実は無視してもよろしい”というメッセージを投げかけているようですらある。自身の思想信条を世に広めるためには、嘘をつくことも奇弁を使うことも厭わない、「つくる会」のメンバーが学校教育を通じて育てたい日本人とは、そんな人物なのだろうか。思想信条を云々する以前の姿勢の問題であると思う。
これらがれっきとした検定通過済みの教科書であることには注意が必要だ。
この教科書は、信じ難い論理の飛躍や、あえてあいまいなまま繰り返される言葉、露骨に仕組まれた特定の価値観の刷り込みなど、致命的とも思える欠陥をもっている(繰り返すが、思想の内容以前に、ごまかしによって特定の思想をすり込む姿勢そのものが問題なのである)。しかし、これらは文部科学省が学校で使うにふさわしいと判断したものなのだし、私にとって身近な子供がこの教科書を使って教育を受ける可能性は十分にある。
完璧に公正中立な歴史記述などというものが望めないことも確かだし、教師の姿勢によっても教育内容は変わるだろう。しかし、教科書は繰り返し読まれ、記憶に残るものだ。「つくる会」の教科書がどこまで実際に使われているかを継続してウォッチすることは、非常に重要だと思う。
ここからが本題だ。「つくる会」の教科書が、教科書であるがゆえに検定というステップを踏み、その課程で内容のずさんさや偏向ぶり、その危険性について国民の認識が広がる機会があったのに対し、文部科学省が副教材として作成し、配布した「心のノート」は静かに、しかも確実に教育の場に広がっている。むしろ、問題としてははるかに大きいというのが私の印象だ。
学校教育において公共道徳についてもっと多くの時間を割くべきとの考えには、私は同意する。街を歩けば、若者に限らずいい年をした大人でさえ、少し考えればその傍若無人ぶりが認識できるような行動を平然と取っている。このままでは、他人の行動に鈍感になり、無視するのでなければ外出するだけで多大なストレスをためる社会になってしまうだろう。
学校での道徳教育が全てを解決するわけではない。むしろ禁煙の場所で平然と喫煙し、列には割り込み、集団で大騒ぎをし、通路を塞いで立ち話をする大人たちが、自らの言動で子供たちから公共道徳の観念を奪い取るべく教育しているのが現状だ。
しかし、価値観を形成する時期において公共の観念をしっかりと身につけることは、子供たちにとっても極めて重要なことだし、家庭と並んで学校が大きな役割を期待されていることには変わりはない。
では、「心のノート」は道徳教育の教材として優れているのだろうかといえば、決してそうはいえない。
道徳教育は、同時に公共概念の範囲、自己判断と自己責任の重要性をあわせて教えることなしには成立しない。多様な価値観と習慣を持つ多くの人々が共有する”公共”を、いかなる場として維持し、相互の利害を調整するかという考え方は、そこに生きる人々にとって重要なものだ。そして、ここに愛国心をあえて挟み込む必要はどこにもない。
道徳教育教材としての「心のノート」は、公共道徳という人々の暮らしに関わる問題に、”ふるさとを愛する””国を愛する”という異質な根拠を持ち込むという欠陥をもっている。極論すれば、道ばたにゴミを捨ててはいけないのは、街がゴミだらけになることが街に暮らす多くの人々の幸福を阻害するからであって、街を愛しているかどうかは無関係だ。
下手に愛国心を接ぎ木すると、”私はこの街が嫌いだから汚してもかまわない”という主張を認めなければならない。でなければ、”自分が暮らす街を愛することが住人の義務であり、例外はない”と規定するしかないではないか。それは公共心でも道徳でもないと私には思える。
本書でも指摘されているとおり、「心のノート」を作成して配布した側の意図は、おそらく公共道徳と愛国心とを密接に結びつけて子供たちにインプットすることにある。身近な人々との関わりや毎日暮らしている街への感謝や愛着を、無批判に日本の伝統や愛国心に拡大することを道徳教育と呼ぶかどうかは、大いに疑問だが、一部の人々にはまったく矛盾とは意識されていないのだろう。
この矛盾は、「つくる会」の粗雑な教科書が主張するものと極めて似通っている。「つくる会」がどこまで文部科学省側の意図に沿うべく教科書づくりを行ったのかはわからないが、格好のおとりとして機能したことは確かだ。「つくる会」の教科書が世間の目を引き寄せている間に、「心のノート」は全国で子供たちに配布され、小中学生が公共心と愛国心を混乱したまま受容させられている。公共心や道徳の教育という、多くの人々が否定しない看板を立てながら、飛躍した論理によって批判精神を封じ込めようとするのは、教育ではなく洗脳だ。これを推進する人々は、独裁者による国民の操作を非難する資格を持たない。
自分が暮らす街や郷土を愛し、その伝統を重んじる気持ちは重要なものだ。それを否定するものではない。だが、それを公共道徳と結びつけることは正しくないし、ましてやさまざまな条件や歴史の積み重ねを無視して一気に愛国心へと拡大することは学校教育の役割ではない。
少なくとも、このような暴力的な教材を使う教育を、私は信用することはできない。教育現場の人々に、このようなまがい物の”教育”から子供たちを守る誇りがあることを切に信じ、願う。
教科書が危ない〜『心のノート』と公民・歴史
入江曜子 著
岩波新書