読了はすでに2週間以上も前なのだが、本書のテーマについて語るのはなかなか難しい。おそらくは「バカの壁」の影響を未だに引きずってのタイトルからは、日本的な集団主義の心理や、それが生み出す現象について面白おかしく解説しているのだろうと思えるが、そうではない。「みんな」という、とらえどころの難しい自己−他者認識について考えるガイドブックであるといえる(それはそうと、このタイトルのつけ方は安易だったのではないかと思うが、どうだろうか)。
私たちは日常的に「みんな」という言葉を使う。行事や仕事は「みんなで頑張る」ものだし、ルールやマナーは「みんなのために、みんなで守る」ものだ。学校であれ会社や地域社会であれ、いたるところに「みんな」があり、私たちは「みんな」と一緒に生きている。一方で、このような「みんな」の存在と「わたし」とは、常に幸せに同居できているわけではない。むしろ、不自由や束縛感を感じることの方が多いのではないだろうか。
また、本書でも述べられる通り、ずっと同じ「みんな」であった人々が二つの集団に分割されたとたんに、「みんな」と「むこう」にわかれてしまう。会社でいえば、部門が分割されれば「みんな」も分割されてしまうし、本社で働いていた者が異動して現場に出たとたんに本社批判の急先鋒に転じることなど日常茶飯事だ。
セクショナリズムと呼んで納得した気になっているが、そんな脆弱な「みんな」に行動の規範やより所を求めてしまうことの是非は、あまり真剣に考えられることはない。「みんな」に対して「わたし」を取り出すことは、ともすれば”万人の万人に対する闘争”を招きかねない、良くても”人それぞれなのだから、自分の基準で批判するのは良くない”といった諦めにたどり着くのがせいぜいだ。「みんな」とは何か、私たちはなぜ「みんな」と言いたがるのかを考えることは、「わたし」同志のかかわり方をどう認識し、デザインし、作り上げて行くのかを考えることと表裏一体だ。それゆえ、本書のテーマはめんどうなのである。
本書の中盤で華々しく登場するのが、元道路公団総裁で日本中の非難を浴びたといって良いボロボロの状態に追い込まれ姿を消した藤井という人物だ。
自分自身の記憶まで「みんな」に依存する(自身の行動についてさえ、自分の記憶ではなく”人にこうだったと教えてもらった”としか表現できない)この人物のこっけいさは、それほど「みんな」に依存しているにもかかわらず、その「みんな」から見棄てられ、それでも「みんな」の論理で自己の正当化を主張し続けたところにある。日本のいいかげんで明かに利益誘導型の道路行政は、何も藤井氏一人が推し進めてきたわけではない。官僚や政治家だけでさえなく、大小さまざまの利益を得た人々や”次は自分の番だ”とばかりに隣県の無駄遣いを容認してきた人々...結局は「日本のみんな」が共同で進めてきたものだ。
日本中の「みんな」が彼を攻撃した背景には、彼の存在と言動がこうした「みんな」の行動を浮き彫りにしてしまうことを恐れ、非常識なだれかが「みんな」の利益を損なったことにしておきたかっただけなのではないかとさえ思える。
仕事上のキャリア形成にせよ、人生設計にせよ、私たちはこのところ「自己責任」なる言葉を多用し始めてもいる。
私たちは、すでに「みんな」というより所が、会社組織であれ、国家であれ、あるいは地域社会であれ、当てにできたものではないことを知ってしまった。だから自己責任だといわれても、「わたし」として「みんな」に対峙するのは必ずしも楽な選択とはいえない。むしろ、さまざまな「小さなみんな」を想定して自分も「みんな」の一人だという幻想を受け入れたほうがはるかに簡単だ。こうしてあちこちに「小さなみんな」ができあがる。
しかし、一度「みんな」というより所を疑った以上、「こっちのみんな」は違うと信じるのもまた容易ではない。それはカルトや狂信という形を取るしかないだろう。
とはいえ、「わたし」と「わたし」とが対峙する社会のメカニズムを体得できてもいないし、それを受け入れる準備もしていないのだ。
アメリカ型の「自己責任社会」が正しいとも思えない。彼らこそ、アメリカという「みんな」の幻想を押し立てて戦争を繰り返す厄介者でさえある。しかし一方で、私たちは、この国を動かす「みんな」のよるべのなさを理解してしまっている。すでに後戻りはできない。
地域社会やらコミュニティやらの意義を叫ぶ前に、このやっかいなテーマに取り組んでおくことが、私たちに課せられた宿題であるように思う。
「みんな」のバカ!〜無責任になる構造
仲正昌樹 著
光文社新書