2004年07月12日

この制度疲労を、どう打破するのか〜『誰が「本」を殺すのか』

「世界の中心で、愛をさけぶ」44冊939件、「バカの壁」63冊673件、「13歳のハローワーク」28冊662件、「蹴りたい背中」34冊626件...
これらは私が利用する公共図書館での、予約人気ランキング上位の作品と所蔵数、そして予約数のデータだ。300万部以上の大ベストセラーとなった「世界の中心で〜」や「バカの壁」の人気が高いことは理解できるが、だからといって「バカの壁」を63冊購入して各分館に3〜10冊も所蔵する意味はあるのか。利用者のニーズに応えるといえば心地良く響くものの、購入を10冊に抑えれば他に50冊以上の新書を購入できたという事実を忘れてはならない。試しに同図書館で「チーズはどこへ消えた?」を調べてみよう、所蔵数は29冊で貸出数は9冊、予約はもちろんゼロである。2年後に63冊の「バカの壁」、44冊の「世界の中心で〜」が単なる書架の肥やしになることは目に見えている。少なくとも私は自身の払った税金がこのような使われかたをしているのには、極めて強い違和感を持たざるを得ない。

本書は、極めて不合理な流通と取引慣行を抱えたまま”死に向かっている”書籍の現状を、作り手である版元から書店まで串に刺す形で描き出している。本によって広い世界に触れ、その知見と視野を広げてノンフィクションの書き手となった著者ならではの、本に寄せる思い入れが強いエネルギーとなってこの大作に緊張感を与えている。タイトルや構成から、「本を殺し」た犯人捜しのミステリーとしても楽しむことができるだろう。
冒頭に挙げた、公共図書館の”無料貸本屋”化についても、ひとつの章が割かれて関係者へのインタビューや各種の統計などからその実態が描き出される。公共サービスとしての利用者至上主義、貸出至上主義がもたらしたのが、ベストセラーの複本購入であり、パチンコの必勝法ガイドの購入だ。
私自身、小中学校の頃は図書館に毎週のように通った。当時は貸出が1回3冊などと制限されていたので、両親のカードも使って最大限9冊を借り出しては読んだ。決して裕福な家庭ではなかったし、近所には書店などなかったこともあり、図書館で無料で貸し出される本の数々は、今の私が形成される上で極めて大きな存在だった。しかし、「バカの壁」を予約し、「パチンコ必勝法」をリクエストするのは”読書の楽しみ”にこれから入っていく人々なのだろうか。私はまったく違うと感じる。

ベストセラーが登場するたびに、「これで読書人口が増えると期待されている」という紋切り型の報道が目につき始める。しかし、ベストセラー読書人口を増やすのなら、「窓際のトットちゃん」や「マディソン郡の橋」、あるいは「チーズはどこへ消えた?」は莫大な量の読書人口を産み出したはずだ。
しかし、実際には読書人口のベースはさほど増えておらず、ただ他の娯楽と同じように”読む”層が増えているだけなのだろう。普段はCDなど購入しない人々が流行に飛びついたから宇多田ヒカルのファーストアルバムは空前のヒットとなったのだし、ワールドカップをあれほど熱狂的に見つめた人々はJリーグには見向きもしない。本だって同じようなものだ。

本が売れない、売れないから版元は躍起になって新刊を出し続ける。書店のスペースには限りがあるから売れない本はすぐに返品され、返品の山は版元の経営を圧迫し、更なる出版点数の増加へと拍車がかかる。書店は自ら店頭に置くべき本を決めることができず、ただ取り次ぎから送られる箱から新刊を並べる”場所貸し業”に成り下がる。
「世界の中心で、愛をさけぶ」が売れた要因のひとつとして、「嵩高紙」があるらしい。要するに、従来のものよりも軽くて分厚い紙で本を作ることで、少ないページ数でも”分厚い本を読了した”満足感が得られるのだとか。
本読みの視点で語れば、こんなのは客を小馬鹿にした小細工にすぎないし、あっさりとだまされて満足感に浸る読者も情けないものに映る。しかし、たったこれだけの工夫をさえ、怠ってきたのが出版業界だともいえるのだ。顧客たる読者に、どんな本がどのように届き、読まれているのかを知るところからマーケティングは始まる。店頭で本がどう”見せられて”ているかだけでも、多くの版元が実感を持っているとは思われない。
文庫版で新たに加えられた本書の「検死篇」には、「バカの壁」を産み出した新潮社の社員が、各社の新書をズラリと並べて新潮新書の装丁を決めるというエピソードが紹介されているが、これが手柄話となるほど、版元は書店店頭には興味がないのかもしれない。

私がときおり立ち寄る地元の書店を比べても、「Deep Love」を文芸のコーナーにうずたかく積み上げる店と、芸能人エッセイやサブカル本のコーナーに申し訳程度に置く店とがある。少なくとも、私という顧客に届くのは後者の姿勢だ(ちなみに、私があちこちの書店を探し回った中公新書の「太平洋戦争」「東京裁判」をきちんと在庫していたのも、この店である)。もちろん、前者の姿勢を歓迎する読者も多いだろうし、それはかまわないが、そこには自店の顧客層や売れ筋商品の冷徹な分析が必要なことはいうまでもない。結果として、普段遣いの店として便利な店も作れるし、わざわざ立ち寄る店作りも可能だ。
本書で紹介もされている「往来堂書店」が、なぜ多数の本読みたちの敬愛の対象となるのか、書店主も、あるいは流通や版元も、そして公共図書館の”店頭”を作る司書たちも、再度考え直すべきではないだろうか。
売れている場の実感や、読者の姿を見失い、「バカの壁」が売れ出すや書名に「バカ」が踊り始めるといった姿勢を見るにつけ、まだまだ読者と版元との距離は遠いと思わざるを得ない。こうして作られた”読者”など、半年もすれば消え去るあぶくのようなものにすぎないのは当たり前ではないか。繰り返すが、「バカの壁」が売れればタイトルに「バカ」を連発し、「世界の中心で〜」が売れれば嵩高紙の確保に奔走する、今の版元が行う”マーケティング”とはこのレベルにとどまっているところが少なくないのだ。それゆえ、私には現在のベストセラーが読書人口を増やすのに貢献するとは、とても思えないのである。

本書は最初の単行本でも読み、このたび文庫化にあたって再度読んだ。
読むたびに、現在の出版を巡るさまざまな制度疲労には暗澹たる気持ちにならざるを得ないし、解決の前に産業として自壊してしまうのではないかと思わされる。
「blog::TIAO」でMAOさんはこういう

でも心配することはない。今の出版界が滅ぶときこそ、新しい出版の時代の幕開けだからだ。読書を楽しむ人たちが絶滅することはなく、ニーズがあればそして野心的な新しい書き手がいる限り、出版文化は栄えるだろう。

たしかに、今の出版業界を支える企業が消えてなくなっても、出版も、本も、読者も消えるわけではない、私も本を読み続けるだろう。仮に数年間新刊が出なくたって読み切れないほどの本がこの世にはある。
そもそも、本がこれほど多く流通し、捨てられている状態は人類にとって決して当たり前の姿ではない。私たちと”本”の関係はこれまでも変わり続けてきたし、これからも変化するだろう。些細なことだが読み手としての私自身も、確実に集中力や理解力を失い、嗜好も変わり続けている。
長い間かかって確立し、そして疲弊してきた産業構造の問題を一気に解決することは難しいだろう。しかし、一方にさまざまな嗜好を持つ読者がおり、他方には多くの書き手がいる。両者を結びつける役割を担う編集者や流通、書店もなすすべなく立ちつくしているわけではない。本が甦ること、すなわちそれを望む読者に届く新たな産業構造の確立を望みたい。

 誰が「本」を殺すのか 上・下
 佐野眞一 著
 新潮文庫

Posted by dmate at 2004年07月12日 22:57 | TrackBack
Comments

いただいていたTBへの些か遅すぎるレスですが、ご容赦を。ぼくも本は大好きで、大好きだからこそ憂えているし、また自分でできることがないかといろいろと考えて始めたのがこのサイトです。

■マチともの語り
http://tiao.jp/blog/

あなたのマチにもの語りがありますか?
という呼びかけにすでに20人くらいの作家が共鳴して参加してくれています。
ウェブログをメディアとした文芸サイトとしてはかなり新しい試みのつもりです。一度、遊びに来てください。そして感想やご意見をお願いします。

Posted by: MAO at 2004年07月28日 21:22
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