2004年07月05日

言説のキャッチボールと偽情報の氾濫〜「日本の偽書」

私はSFファンだったし荒唐無稽な作り話が大好きだ。したがって、高橋克彦氏の小説などはけっこう喜んで読むし、NHK大河ドラマ「炎立つ」もほとんど全てを見ていた。けれど、「超古代」を記述したという「東日流外三郡誌」やら「竹内文書」などを信用するかといえば、それは全く別問題である。もちろん、こうした文献に基づいて古代史を描く本に触れる前に「と学会」による分析を読んでしまったので、今さら信じられないということは確かだろう。小学生の自分に「東日流外三郡誌」の解説書(といっても、ほとんどは都合の良いところやおもしろそうなところをつまみ食いしてのトンデモ本なのはご存じの通りだが)を読んでしまったら、意外とはまっていたかもしれない。

本書で取り上げられている偽書は、「東日流外三郡誌」「竹内文書」「上記(ウエツフミ)」「秀真伝(ホツマツタヘ)」「先代旧事本紀」そして「先代旧事本紀大成経」の6つ。いずれもすでに偽書であることが確認され、おおよそ作者もわかっているものだ。
もっとも、「東日流外三郡誌」などは東北地方の一部では未だに正しい歴史を記述した書と信じられているとあり、暗澹たる気分になる。これを下敷きにした大河ドラマ「炎立つ」をフィクションとしてではなく、事実として受け入れてしまった人々も少なくないということなのかもしれない。

こうした偽書がなぜ次々に登場し、偽物であることが確認された後も信じられるのだろうか。
本書でもこの問題と「旧石器発掘捏造」の問題と重ね合わせ、”日本が(あるいは我がふるさとが)世界でも特殊な優れた文化を持っている”という願望が形になって表れたものだからこそ、どれほど否定されても一定の人々を魅了し続けるという構造を明らかにする。そこには、一部のカルトやトンデモ本が支持者を得るのと同じ構造がある。
そもそもまともな歴史書や史料には、私たちの優越性や先進性を証明してくれる都合の良い物語が書かれていることなどない。劣等感の裏返しか、あるいは被抑圧によるルサンチマンの蓄積によってか、一部の人々は”あなたは特別な存在なのですよ”と認めてもらいたくて仕方がないのだ。そこへ都合の良い回答を提示して人の心を絡め取るのがカルトであり、その極端な姿のひとつがオウム真理教だったろう。オウムのようなわかりやすい犯罪を犯さなくとも、特定の思想に帰依するものだけが特別な存在であり、将来の危機を生き延びることができるといった物言いはそこら中にあふれかえっている。
必ずしも高い評価を受けられない人々が、自分にとって都合の良い証拠を得てしまったときに持ち上げすぎてしまい、偽書であることが証明されたとしても容易に引き返せないところまで嵌り込んでしまう、人がカルトを抜け出すことができにくいのと極めて似通った構造がそこにはあるのだろう。

こうした偽書が形成される過程で、著者が指摘するのが「言説のキャッチボール」という状況だ。
すなわち、自身に都合の良い証拠を求める者同志のコミュニケーションから、一方の偽書の作成者が世間(の一部)に望まれている考え方を感じ取り、それを偽書に反映させていく課程のことだ。こうしてできあがった文書が”発見”されるや、その内容を待ち望んでいた人々によって熱狂的に受け入れられ、その人物の影響力の度合いによっては正当な史料であるかのような評価を得てしまう。本書で取り扱われた偽書は、いずれもこうした過程を経て広がったものだといえる。

注意したいのは、こうした「言説のキャッチボール」は、私たち自身も普段の生活の中で比較的頻繁に行っているものだということだ。
たとえば営業月報などの報告書を書くとき、普段からある商品の価格政策に不満を抱いている営業部長の部下は、担当顧客の前でもその価格設定について苦慮しているという発言をするだろう。その顧客から「あと5%安ければもっと扱えるんだけどねえ」という言葉を引き出したとき、その営業マンは嬉々として報告書に記載し、部長もまた我が意を得たりと報告書に転載をするだろう。こうして報告書が転載されるうち、たった一人の言葉があたかも市場全体の声であるかのように拡大され、当該事業部は価格政策の見直しをするかもしれない。しかし、もとを質せば部長の意を受けた営業マンが顧客先で価格政策を嘆き、価格が引き下げられることで利益を拡大できる顧客の一人がその期待に応えただけなのだ。
上の事例はあくまでフィクションだが、こうして”作り出された”市場の要望を私はいくつも知っている。ひどい事例では、部長にあたる人物が顧客との会合で自説をぶち挙げ、”誰も反対しなかったから”顧客の一致した要望として報告した事例さえある。
人は誰でも、利害を共にする人々の役に立ち、評価されたいという心情をもっている。「言説のキャッチボール」は、その心情の相互作用といえる。偽の要望をでっち上げているだけならある企業の利益が減るだけで済むが、歴史や文化の書き換えとなると話は違う。

私たちの多くは研究者ではないし、単に荒唐無稽な話を喜んで受容し消費していればいいのかもしれない。
しかし、自分にとって耳あたりのいい情報が突然飛び込んできたとき、そこに飛びついてしまうことの危険性には十分な認識を持つ必要がある。これまでに「言説のキャッチボール」のためにどれほど多くの意思決定が誤った方向にねじ曲げられてきただろうか。あるいは、個人の幸せを失ってしまった事例はそこら中にあふれているだろう。
広く流布され未だに信じ続けられる偽書の存在は、自分の見たいものを見、聞きたいことを聞き、信じたいことを信じる私たちへの警告だ。

 日本の偽書
 藤原明 著
 文春新書

Posted by dmate at 2004年07月05日 22:14 | TrackBack
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