いつも楽しみにしているweblogのひとつ、「ITマーケティング・ブログ【波多野blog】」のエントリーで紹介されていた財務省財務総合政策研究所による報告書「団塊世代の大量退職が日本経済に与える影響」を興味深く読んだ。
くわしくは公開されているPDFファイル(A4で20ページの短いものである)を参照いただきたいが、2000年時点で689万人、人口の5%を占める団塊世代の退職の影響が、次のように総括されている。
以上、研究成果を総覧すると、
団塊世代の退職は、
・団塊世代に続く世代の昇進遅滞が解消される可能性(樋口ほか論文)
・企業における賃金負担の軽減(鈴木準論文)
・時間消費型消費などの拡大の可能性(関沢論文)
などのポジティブな影響をもたらす半面、・業種や職種によっては、大きな労働力不足や技能継承不全が起こる可能性(樋口ほか論文)
・企業にとっての多額の退職一時金やその後の企業年金の負担(柏崎論文)
・オフィスワーカーの現象による賃貸オフィス市場の更なる需給緩和(松村論文)
・大都市圏に偏在する団塊世代の加齢による大都市の急速な高齢化(藻谷論文)
・高齢化による家計貯蓄率の低下(ホリオカ論文)
・労働供給の減少などによる経済成長率の低下、高齢化による財政・社会保障収支の悪化(八代ほか論文)
などの問題を惹起することが予想される。
団塊の世代という、巨大な年齢層が現役世代から年金によって暮らしを支える世代へと移行することは、GDP約16兆円の減少という数字にも表れるほど大きなインパクトを持つものだ。報告書が指摘するとおり、そのインパクトにはポジティブ/ネガティブの両面が存在し、日経の記事ではどちらかといえばネガティブな側面が強調され、高齢者の継続雇用というテーマに読者を誘導しているかに見える。
同日の日経の紙面には、有効求人倍率が上昇に転じている一方で、若年層の就業意識が伸び悩んでいるとの報道がある。経済成長が止まり、企業が人的コストの削減に動く中で団塊の世代を始めとする中高年の雇用を維持するために若年層の仕事が減り、さらには就業機会を得たとしても業務内容がサポート的なものにとどまり昇進の機会も限定されたことが、若年層におけるフリーターや非就業者増加を招いたことは、玄田有史氏が指摘されているとおりである。したがって、団塊世代の引退に伴う労働力供給の減少を、彼らの雇用継続によって解消しようとする方向が正しいのかどうか、私には納得しきれない。
団塊世代退職に伴いポジティブな影響のひとつとして、それに続く世代の昇進遅滞の解消があげられている。職場による多少の差はあっても、団塊世代がポストを保持し続けることによる閉塞感は多くの企業や団体などに共通のものだろう。
50代半ばになっても、以前と同じような認識力や判断力を保持し続けられるものはやはり少ない。経験から学んだ範囲内での判断力や、人間関係の構築力には優れていても、経験したことのないリスクへの対応や新たなビジネスやスキームの構築力については、残念ながら高齢者にはアドバンテージは少ない。ようは組み合わせなのだが、人は一度手にした権限や影響力を手放すことを好まず、結果として30〜40代の実質的にビジネスや活動を動かす世代の抱える閉塞感、さらにはその下で補助的な業務に縛られて成長の機会と実感を失っている若年層の不満は大きいはずだ。
報告書においても、この問題は前提とされているからこそ、年齢や性別にかかわらない、能力に応じた処遇が確保できる制度の構築が求められているとの指摘がある。しかしながら、それは長期的課題とされており、短期的には(少なくとも団塊世代が定年を迎える2007年以後の数年間は、ということになるのだろう)高齢者の雇用促進策が重要とされる。
年齢ではなく能力による処遇という社会的なコンセンサスを確立できないままに、団塊世代の継続雇用を急ぐことは、下手をすると若年層の仕事に関する意識と意欲を今のまま低い水準に押しとどめる結果を招きかねない。現在55〜57歳の団塊世代が65歳まで今の意識で働き続けるとすれば、20代の若者は30代になってしまい、彼らの職業人としての成長機会はほぼ絶望的に失われる危険性すらある。年齢や性別によって処遇が決まる、今の制度を変革することは決して長期的課題などではないのだ。
企業における定年延長の動きは、定年直前の処遇を引き継ぐものではない。ほとんどの場合、一度退職の後に契約社員や嘱託という形で処遇と業務内容、権限などを大きく変更してのものだ。対象は全員ではなく、雇用者と労働者の相互に納得感のあるもののみが残るものとなっている。しかし、これは多様な職務領域を用意できる、比較的大規模の事業所だからこそ可能な対応策であり、多くの中小企業においては高齢者の継続雇用は一定の技能や経験を持つものをそのままの職務内容で(処遇に関してはある程度落とした形で)実現されるのではないだろうか。
仮に65歳までの雇用を義務化した場合、若年層の就業機会や、責任ある仕事を任される機会はやはり増えないままになる危険性を、私は問題視したい。大企業においても、高齢者の経験や自尊心を尊重しつつ、実質的な権限や影響力を次の世代に譲り渡すには大きな人的な調整コストを要するだろう。それは私たちの社会がどこかで通過せねばならない関門であり、支払わねばならないコストであることには違いなく、政策誘導の面では高齢者雇用の問題と、年齢・性別から能力や貢献度への評価軸の転換は並行しなければならない課題だと私は思う。
もちろん、団塊世代の後に続く30〜40代にとっても、彼らの存在からくる閉塞感を言い訳にすることなく次の成長の責任を背負う覚悟とスキルが必要で、こちらも決して楽観できる状態にないことは確かだ。私たちは、長い間「上がバカだからね」などとぼやきつつ、自らが解決できる問題をも他人のせいにしてやり過ごしてきた(少なくとも、バブル景気時の意思決定の失敗の責任を引き受ける気には、40代はなれないはずだ)。しかし、実質的に組織を動かす立場となっても同じ言い訳を繰り返すとすれば、今の40代は団塊世代と同罪ともいえる。
世代間の責任のなすり合いは、年齢によって処遇が決まる価値観という土俵上で物事を考える結果であることは間違いない。重要なのはひとりひとりが自らの役割と責任を自覚し、大きな社会の転換点をどのように乗り切っていくべきかを考えること、そして一時しのぎの対応ではなく、本当にこの転換点を乗り切っていくための政策についてビジョンを示すよう、声を上げていくことだと私は思う。