2004年06月23日

資格と権力と権威と〜「心を商品化する社会」

さまざまな事件やストレスの発生から学校や職場での”心のケア”が重要とされている。現に私も職場で定期的にメールマガジンを配布され、いつでも匿名で相談できるサポートダイヤルを知らされてもいる。著者の一人である小沢氏が同じ洋泉社の新書yで出版した『「心の専門家」はいらない』を読むまでは、こうした傾向にあまり疑問を感じることもなかった。

本書では、『「心の専門家」はいらない』に続いて、”心のケア”なる社会的・組織的な行動が、実際には問題とされる言動を引き起こしたかもしれない社会や組織の環境から個人を切り離し、個人の心の中にその原因を押し込めて”治療”の対象とすることの危険性を警告している。本書で使われるたとえがわかりやすいのだが、こうした”心のケア”とは、水槽の中で苦しそうにしている金魚をきれいな水槽に移して治ったとする行為であって、もともとの水槽に問題があった可能性を捨て去っている。
また、”心のケア”が専門家と患者、という関係の中で行われる以上、そこには完全な上下関係が生じてしまい、ケアを受ける側はケアを行う専門家のシナリオの中で行動することを余儀なくされる。それが本当に問題の解決につながるのかと疑問に思うのは当然のことだが、結局は問題行動を組織から切り離し、それを個人の問題であるとして”治療”することが目的なのであれば納得が行く。

本書を読んで私が極めて危険と感じたのは、上述の”心の専門家”を公的資格として成立させ、その権威と権能を確立すべく活動している河合隼雄氏が、その目的のために文部科学省や政権党内の偏った教育観をもつ人々に積極的に協力し、教育の現場に特定の価値観を持ち込むことの推進者となってしまっていることである。

私は中小企業診断士という資格を持っている。実はこの資格は、名称の割にはたいしたものではなく、中小企業診断士でなければできない仕事などないといって良い。経営コンサルタントの資格ということになっており、MBAブーム以前にはかなり人気を集めた者だが、その実は国の中小企業対策を実行するにあたって役人だけでは手が足りないので、予算執行の正当性を確保するための調査を委託される程度のものといって良い(もちろん、中小企業診断士の中には優れた経営コンサルタントが大勢いるが、これは彼らが診断士だから優れているのではなく、優れたコンサルタントがたまたま資格ホルダーであるにすぎない)。
このような状況では、資格の権威も不安定であり資格と制度のおかげで生活をする人々にとっては大きな問題なのだろう、存在感を高めるために「中小企業診断士会」を設立しようという動きもあるようだ。要するに権益拡大のための圧力団体づくりである。もちろん私も勧誘ハガキを受け取ったが、あまりの馬鹿らしさにその場で破り捨ててしまった(ついでにいっておくと、資格の更新もすでにやめており、来年春には晴れて中小企業診断士資格を返上する予定だ)。

少々脱線したが、いってみれば公的資格とは特定の技能や知識を持つ人々が、自分たちの権威を確立して権益を拡大し、ひいては社会的影響力と収入の拡大をねらうものであるといってかまわない。中小企業診断士は、もともと経営コンサルタントという職業には公的資格よりも個人の技能と実績が重要であったがゆえに、資格による権威づくりに失敗したものといえるだろう。資格がものを言うのは、そのスキルが極めて高度で素人には手出し口出しが不可能と思われていることが大きな条件だ(医師、弁護士、税理士など、権威や権限の明確な資格がそうだ)。
”心の専門家”である「臨床心理士」についても、医師と同様に素人には理解できない難解さとそのスキルを身につけていることによる権威が感じられることは確かだ。
しかし、本書と読めばわかるように、そのスキルや知識が必ずしも医療技術などのように確立されたものではなく、むしろさまざまな危うさを内包したままでその解決を脇に置いた状態で資格制度の確立が急がれている。そして、このような状態にもかかわらず、教育現場への”心の専門家”の配置が進んでいることに、私たちは敏感になるべきだ。
社会や組織に問題があるのではなく個人の心に問題があるという診断と治療を求める権力側・組織側のニーズと、専門家としての権威と検疫を確定して収益(金銭だけではなく、社会的な認知や尊敬なども含む)を得たい河合氏をはじめとする集団のニーズとの一致、すなわち心の問題を商品化しようという意図が先走っている。”治療”を受ける個人の幸せを尊重する姿勢は、みじんも感じられない。

こうしたニーズの合致から生まれたのが、すでに教育現場での活用が始まっている「心のノート」と呼ばれる教材だ。
自らのプロフィールや感じていることを一定の枠内で書き込むことで、「国を愛する」といった特定の価値観に児童・生徒たちが”自らたどり着く”ように仕組まれたこれらの教材を使えば、極端にいえば教育する側は子供たちを洗脳することさえ可能だ。本書内で紹介されているわずかなページからでさえ、「ふるさとを愛する」ことと「国を愛する」ことを等価に語られるなど、与党が進める教育基本法の改正を先取りする内容がすでに盛り込まれている(もちろん、典型的なページを引用したのだろうが)。この教材の使用は選択可能なものとしながら、使用状況の調査を行うなど文部科学省の姿勢が強制に近いものであることが明らかだ。目につく議論に気を引かれているうちに、なし崩し的に愛国心教育は実施されている。

私は愛国心を全て戦前の皇民教育に結びつけて脊髄反射で反対を唱えようとは思わない。また、道徳教育の欠落が多くの問題を私たちの社会にもたらしたことは事実だと思っている。しかし道徳の規範をつい100年前の日本社会に求めるほどナイーブでもないつもりだ。
愛国心というときの”国”という言葉が表しているのが国土や風土なのか、地域社会なのか、あるいは国家体制なのかが不明確である以上、それが悪用される危険性には目を光らせることが必要だ。仕事をしているかたならおわかりだろうが、交渉ごとが難航しそうな場合には、あえて概念を不明確にして利害の対立点を目立たないようにし、あとで個別の事例を判断する際に自分に有利な解釈を押し通すことなどむしろ日常茶飯事といって良い。愛国心が”必ずしも国家体制を賛美し、その活動に協力する姿勢を示すものではない”からといって、危険性が薄いなどと思ってはならないと私は思う。今はそうでなくとも、いつ悪用されるかわからないしそうなった場合の被害は甚大なもの。私たち日本人はついこの間、ほとんど全てを失うほどの敗戦を経験したたばかりではないか。
いずれにせよ、「心の商品化」を推し進める人々は、自らの小さな権威と権益と引き替えに教育の場を売り渡そうとしている。本書は河合氏などと意見を異にする側から書かれたものだけに、これをもって即断することには危険が伴うのは確かだが、今この瞬間も「心のノート」は私たちの次代を担う子供たちに特定の価値観を受け入れる罠として機能しているのだ。

たとえばこちらで批判されているような、自民党内での教育基本法改正について派手な報道が行われる一方で、こうした動きが着実に進行しているのを知ると、この動きを推進する側のある種の用意周到さには舌を巻かざるを得ない。新聞報道もまた、グルなのではないかと思わされるほどだ。
いずれにせよ、子供たちがこのような操作を簡単に受け入れるほどナイーブではないと願っているし、このようなお粗末な洗脳教育を無批判に受け入れる教師ばかりではないことを信じたい。

 心を商品化する社会〜「心のケア」の危うさを問う
 小沢牧子・中島浩籌 著
 洋泉社 新書y

Posted by dmate at 2004年06月23日 20:28 | TrackBack
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