2004年06月21日

トンデモが日常になるとき〜「トンデモ本の世界S・T」

最初に出た「トンデモ本の世界」以来の「と学会」ファンだ。
私は例の「ノストラダムスの大予言」が出版され大ブームになった頃小学生だった。何人かがこの本を買い、ほぼ全員が借りて読んだのではないだろうか。クラスメートの中にはすっかりと1999年7月の人類滅亡を信じ切っていたものもいたし、私も銭湯で見かける映画「ノストラダムスの大予言」はぜひ観に行きたいと願っていた。とはいえ、「恐怖の大王」とやらが降りてきて人類が滅亡する、などという与太話を本気で信じるほど私は幼くもナイーブでもなかった。どちらかといえば、このような本で大儲けした五島氏には、1999年8月に釈明の記者会見をやっていただきたいと思っていたほどだ(もちろん、五島氏が記者会見を開いたとしても、もっともらしいわけをこしらえて世間を煙に巻いただけだろうが)。
周囲の子供たちがあまりに純真に”予言”を信じるので、私は自分がずいぶんとひねくれた存在のような気がしていた。実際に、予言を信じないことを理由に仲間はずれにあったこともある。子供なんて些細な差異を見つけてはからかいのネタにするものだし、私はかなりひねた方だったのは間違いないのだが、五島氏が余計な本を書いたために腹立たしい思い出がひとつ増えたことは間違いないのだ。

トンデモ本とは、”とんでもない予迷いごとが書いてある本”ではく、”作者の意図とは違った視点から楽しめる本”のこと。科学的な知識不足から驚くような”法則”を発見してしまった人や、偽情報を頭から信じ込んで不思議な未来予測にたどり着いてしまった人の論理をそのまま楽しんでしまおうということだと了解している。とはいえ、これらトンデモ本の中には本当にとんでもないものが含まれていることがある。
たとえば、上述の「ノストラダムスの大予言」のブームは、多くの日本人に”ノストラダムスの予言は当たる””近い将来、人類の終末がやってくる”といった観念を植え付け、それ以後の予言関連本や終末本が(それらのほとんどがトンデモ本であるのはいうまでもない)受け入れられる素地となったことは間違いない。オウム真理教だけではない、外から見るとどう見てもまともとは思えない宗教に染まる人々の行動にも影響を与えたことは間違いないだろうと思う。あるいは、1999年7月を前に仕事や学業を放り出したおっちょこちょいな人々もゼロではなかっただろう(私自身は、あまり同情はしないが)。

偽書や間違った風説を信じることも自由だし、それをもとにトンデモ本を書いて出版するのも確かに自由だ。しかし、それが害悪をもたらすものであった場合は、きちんとその間違いを指摘しておくことは重要なことだ。「と学会」の活動を私が評価するのは、トンデモ本を単に笑いものにするのではなく、認識違いや偽情報をきちんと指摘し、どこが間違っているのかを明示しようとする姿勢のゆえだ。あわせて、それをエンターテインメントとして成立させ、ある程度の影響力を持っているからこそ、トンデモ本の拡大再生産をある程度押さえる力になっているだろう。
ネットで調べると、「と学会」やそのメンバーについても、その間違いを指摘して「トンデモ本が実はトンデモ本」といった否定的な論陣をはる人々もいるようだ。”敵の敵は味方”、こうした人々は、ひとつ間違うとトンデモ本を擁護する側に回りかねないことは認識しておくべきだと思う。差別や犯罪を助長する「トンデモ本」にどう対峙するかという立場の表明なしに、有名になった人や物をとりあえず否定してみせる姿勢は、必ずしも現時点で適切な選択ではないと私は思っている。

今回の「S・T」を読んで、最初の「トンデモ本の世界」に比べると面白さの低下は否めないように感じる。何十年もの時間で蓄積された「トンデモ本」を題材にできた第1作に対して、ここ数年の出版物などが題材となる続編とでは最初からハンディもあろうというもの。
とはいえ、「リアル鬼ごっこ」のように”小説”として出版されているにもかかわらず作者がまともな日本語能力を持っておらず、しかも本人が開き直っているような本が百万部を超えるベストセラーとなり、しかもいくばくかの読者が絶賛しているという状況には、「トンデモ本」が日常のものになりつつあると感じざるを得ない。
何かを語るとき、その対象についてある程度の知識を持つことや、立証のために適切な論理立てをすること、あるいは誤解を生じないように適切な表現を選択することなどが常識として広く受け入れられているからこそ、それを欠いた「トンデモ本」が「トンデモ」であり得るのだ。それら言論の常識が失われてしまったら、むしろ「トンデモでないもの」を探すのに苦労をさせられることになりかねない。「トンデモ」は確実に私たちの世界を浸食しつつあるのだ。
「トンデモ」が日常化したとき、私たちの世界はかなり殺伐としたものになってしまうだろう。だれもがまともな根拠も論理立てもなく自説の正しさを信じ、決して譲らない世界、私はそんな、ノストラダムスを信じないものを仲間はずれにする小学校のクラスのような社会に暮らすのはごめんだ。「トンデモ」を「トンデモ」としてきちんと認識し、笑い飛ばす健全さを、大切にしたいと思う。

 トンデモ本の世界S・T
 と学会 編
 太田出版

Posted by dmate at 2004年06月21日 20:59 | TrackBack
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