2004年06月16日

価値の相対化と自身の立ち位置〜<美少女>の現代史

私はオタク文化の中心にいたことがない。
常に周辺をうろうろとしていただけで、たとえばSFは好きだがコンベンションには参加したことがないし、したがって後にガイナックスを設立する人々による有名なオープニングアニメも未見だ。吾妻ひでおも読み「陽射し」も机の奥に隠し持っていたが、コミック誌を継続的に読んでいた時期はない。ガンダムやエヴァンゲリオンなど、極めて象徴的な作品についてなら一応見てはいる、といった程度。

したがって、本書にせよ大塚英志氏の著作にせよ、大まかな文脈は理解できるものの、細部が伝わってこない。オタク文化論はまだまだ高コンテキストなものだと思っているので、取り上げられた作品を何度も鑑賞し、細部の記憶を共有できていないとなかなか同じ土俵で語るのは難しい。
むしろ、見てもいない作品や体験していないムーブメントを得意げに批判して見せる愚を犯すことになりがちだ。かかわっていればそれは”私語り”にならざるを得ないし、かかわっていなければそもそも語ることが難しい。ちょうど団塊の世代に、全共闘について未だに語れないか、もしくは美化された思い出として語ることしかできないでいる人々が多いことと似ているかもしれない。

それゆえ、私は大塚氏やササキバラ氏の著作についてあまり語るべきことをもたない。
本書において著者は、美少女とそれを見て愛で、そして”萌える”側の(主に)男性とのかかわりを、「○○のため」というロイヤルティの対象の喪失と再発見の過程として描く。もちろん、戦後世代である私にとって「お国のため、天皇陛下のため」はギャグにさえならない代物だったし(恐らく、ギャグにさえしてこなかったことが、逆にこれらの概念への耐性を失わせてしまったかもしれないのだが)、親たちのように、あるいはさっさと”転向”を決め込んだ団塊世代のように「会社のため」などというお題目を信じる振りさえできない。美少女とは、その隙間に男たちが代入した、新たな価値ではなかったか。それが本書の視点だ。

しかし、そこには行為の主体者である男と、見られる側である美少女とのいびつな関係が当然内包されている。これは女が美少年を見つめるという逆転を行ったところで消えるものではない。これを乗り越えるには、自身が価値のより所とする「○○」に対して受け身に回るしかないのだ。
一方で、「○○のため」の正当化は「○○以外」を否定することをも正当化する論理の苗床となる。これは「○○」に国家や企業が座り込んでいたころから変わらない。
本書はこれらの矛盾を抱え込んだ状況が、いま美少女と男たちがおかれている場とした上で、そこにリアリティを持つ関係性を確立することが私たちの課題であると結論づけているように思える。

「○○」の喪失は、価値感の多様化と相対化と並行して進んだ。
少し前には「なぜ人を殺してはいけないのか」といった本や記事が流行を見せたが、他人の命でさえも相対化が可能だという、極めて不安定な価値感の上に私たちの生活は浮かんでいる。電車内で携帯電話を使ってはいけない理由は何か、なぜ働かなければならないのか、あらゆる言動についての”なぜ”に回答を出し続けられないならば、いっそ”人それぞれ、なんでもあり”に逃げ込むのが楽だ。それでも人はお互いの価値を接触させながら生きて行くものだから、時折ストレスの爆発も起こる。
エヴァンゲリオンの世界観が広く受け入れられたのは、多くの人々にとって”価値の相対化と相互不可侵”が居心地の悪いものだったからだろう。

だからといって、私は旧式の道徳教育の埃を払って教育の場に持ち込めば問題が解決するなどとは思っていない。「○○のため」が崩壊しているのに、その隙間をいまさら地域社会やらコミュニティといった言葉で埋めようとするのは単純に時計の針を戻そうとする試みとしか思われないのだ。
人の命の大切さや、お互いの心を尊重する姿勢が消えたのではなく、あまりにそれが肥大化したからこそ、私たちは自らの価値感にしたがって他人との関係を切り結ぶことができなくなったのだ。その順序を間違えて道徳教育を行っても、人々を縛り付ける鎖を増やしてしまうだけだろう。
いま現在、私がなんらかの処方箋を持ち合わせているわけではない。しかし、現在の私たちの姿にあった、規範や価値共有の姿を探し、その浸透策を戦略的に進めることこそが、教育や家庭で求められることなのだろうと思える。

 <美少女>の現代史〜「萌え」とキャラクター
 ササキバラ・ゴウ 著
 講談社現代新書

Posted by dmate at 2004年06月16日 20:55 | TrackBack
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