2004年05月31日

未完成品の魅力

ちょっと古い話になるのだが、パソコン通信での仲間内でPKOという活動を行っていたことがある。もちろん、国連とは全く関係なく、「パソコン 環境 お助け隊」略してPKOである。PC-98担当とMac担当とがおり、パソコンを購入した仲間やその家族のもとへでかけてはフリーソフトなどを使って使いやすい環境設定と使い方の指導をするのが主な活動。もちろん、その前後には参加者全員で食事をしたり、というオフライン・ミーティングでもあった。

当時のパソコンには付属のソフトウェアなどはなく、購入した状態ではほとんど何もできない、文字通り”ただの箱”だった。特にPC-98シリーズではOSさえも別売りで、MS-DOSを同時に購入してもインストールから始めなければならなかったのだ。OSなしでもBASICを起動してプログラミングは可能だったが、さすがにプログラミングを前提にパソコンを購入する時代ではなくなっていた。
それゆえ、目的に応じて(パソコン通信、家計簿、日記、ゲームなど)必要な機材とソフトウェアをセットアップする必要があったが、ソフトウェアの価格は現在よりもはるかに高く、優秀なフリーウェアを探して設定するための情報量も不足していた。”使えるようにする”ための設定作業をクリアできないままにホコリをかぶったパソコンは相当多かったのではないかと思う。その設定作業のために嬉々としてでかけていったのが、私たちのPKOだった(もちろん、全く知らない人のために、というよりもオンラインでの知人やその友人、といった範囲での話だったが)。

MS-DOSの時代からパソコンを使っていた方はおわかりだと思うが、ハードディスクのどこにどんなディレクトリを作り、必要なファイルをどこにおくか、といったところから環境設定は始まった。ルート(今でいうとドライブを開いたときの最初のフォルダ)にあまり多くのファイルをおくのは美しくないとか、MS-DOSの各種コマンドはどこに整理するか、より便利な置き換えコマンドを使うかどうかなど、人によって好みがあったのだ。
また、プログラムを限られたメモリの中で動かすには、パソコンが起動した状態で使えるメモリの領域をいかに広くするかを工夫する必要があった。空きメモリが少ないと、Aさんのマシンで読み込めたファイルが、Bさんのマシンではメモリ不足で開けない、といったことが生じるのだ。このため、「config.sys」「autoexec.bat」の記述をあれこれと工夫し、特定のソフトウェアでした使わない設定はその起動用のバッチファイルに書き、終了時には止めるなどのテクニックが不可欠だった。PKO活動では、複数メンバーの好みがぶつかるのを防ぐために、その都度メインの担当を決めて他はそのサポートに回っていた。

すっかり昔話になってしまったが、こうして工夫を凝らして設定したマシンには自ずと愛着がわき、次々と便利なツールを導入してはより快適な環境作りを目指していた。下手をすると、設定ファイルをいじって休日がつぶれたこともあったほどだ。パソコンを買ってきて、自分なりに使いやすく設定すること自体が、大きな楽しみでもあったのだ。
それゆえ、はじめてWindowsを導入したときにはかなり面食らった。MS-DOSの場合にはどのファイルが何の働きをしているかは把握できていたし、勝手に保存場所を変えてもいくらでも対応が可能だった。しかし、Windowsではシステムディレクトリを勝手にいじれないようだったし、何のためにあるのかわからないファイルが大量にコピーされ、OSそのものが理解のできない範囲に広がってしまったのだ。それでも、MS-DOSの上に被さっていた頃にはメモリの空き容量によってネットワークへの接続ができなかったりと、自分なりの環境設定の工夫の余地はあった。けれど、それもWindows95やNTになってDOSが不要となり、OSの複雑さがさらに拡大するにつれて、私にとってOSを構成するファイルは単なるブラックボックスになった。
パソコンにはOSだけでなく、一通りの用途に必要なソフトウェアがバンドルされるようになり、買ってきてコンセントにつなげば使い始められるようになった。私たちが熱中したPKO活動の必要性は今ではかなり薄れてしまっている。この傾向は富士通のFMVシリーズの発売から顕著になり、Windows95の登場とともに常識化したといえるだろう。パソコンが未完成の素材から、買ってすぐ使える商品に進化したともいえる。商品としての完成とともに、環境設定を楽しむ私にとってパソコンの魅力は大きく薄れてしまった。

なぜこんな昔話を始めたか、というと、「PDA-JAPAN personal」で次のようなエントリーを見たからだ。

PDAのように、まだ不確定で未完の機器の場合、実用以外にも持っていて楽しいとか、使っていることが楽しいとかという高揚感を無視したプロダクトは、製品自体の魅力を損なうことになるのではないかとも感じています。

私が使っているPDA、Zaurus SL-C750もまた、”不確定で未完の機器”といえる。標準のアプリケーションは使いにくく、さまざまな使い勝手の悪さが放置されたまま発売されている一方で、改善するためのさまざまなソフトウェアが公開され、ユーザーは自分なりの環境を作り上げることができる。この楽しみは携帯電話にはないものだ。
未完成品を自分自身が使いやすいように一歩ずつ変えていく楽しみ、これがPDAの魅力に他ならない。パソコンが商品として完成に近づくつつあるように、PDAもまたこうした魅力をいつか失ってしまうのかもしれない。そうなってこそ、PDAはより多くのユーザーに受け入れられ広く普及するのだろうが、そのとき私はどんな楽しみを見つけられるのだろうか、楽しみだが不安でもある。
(初出時に引用タグの閉じ忘れがあり、引用部と本文とが混ざってしまっていました。お詫びして修正します)

Posted by dmate at 2004年05月31日 21:31 | TrackBack
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