2004年05月27日

歴史を知り、歴史から学ぶ〜「東京裁判」

「太平洋戦争」に続く大作。著者は実際に東京裁判の現場に通い、この特殊な裁判の一部始終をその目で見た体験とさまざまな資料とから、戦犯の指名から勾留、そして刑の執行までを丹念に描き出す。私はこの本を読んでいた数日の間、今まさに進行している裁判を報じる記事を、リアルタイムで追いかけているかのような錯覚に陥った。

まず結論をいってしまえば、本書は戦争責任や靖国の問題を考え、これらについて語る上で必須のものだ。私自身も、本書に触れることないままに、首相の靖国参拝を戦犯の合祀を理由に批判する意見に安易にくみしてきたことを恥じる。
A級戦犯とはどのような人々で、どんな罪に問われて刑に服したのかを理解することなく、彼らに日本が引き起した戦争の責任を背負わせて自分たちを安全圏に置く姿勢はまったくもってアンフェアだったと思う。
とはいえ、私はあの戦争が被告たちが主張した通りの自衛戦争だったとは思わないし、彼らを英雄視して戦後の教育や価値観を否定しようとする意見に同調するつもりもない。日本は先んじてアジアの諸国に進出し、植民地を築いた欧米と同じ程度に帝国主義的であっただけであって、それを無視して結果としてのアジア諸国の独立を手柄と誇るなど手前勝手もはなはだしい。よく使われる例えだが、泥棒が先に侵入していた泥棒を追い出したからといって感謝などされないのが道理だ。

いずれの立場を取るにしても、まず、東京裁判はだれがなにをどう裁いたのかを知ることが共通のスタートラインとなるべきだ。
日本人の私から見ると、そもそもこの裁判を取り仕切った連合国の人々は、遂に日本の意思決定の構造やプロセスを理解できなかったとしか思えない。端的にいえば、ドイツにおけるナチス高官と同じ存在を求めて、“いかにもそれらしい人物”を被告としてひきずり出したにすぎない。日本の組織における意思決定は、今でもだれか一人の強い意思に基づいて行なわれるよりは、一定の方向を共有しつつ多くの利害関係者の合意形成プロセスのなかで行なわれている。結果として、ある問題についての責任者を求めると、形式上のトップに行き着くしかない。決定がなされた構造は手つかずで残され、誤ちは繰り返される。

東京裁判では名目上の国家のトップである天皇の責任を問わないことを前提としたために、企業の不祥事でいう“社長の引責辞任”という幕引きは不可能だった。
日本の意思決定構造とプロセスへの無理解と、トップの責任を予め封じ手としたことが、ただでさえいびつな(行為がなされたあとで勝者によってつくられた罪状による裁き)東京裁判は、被告の選定、その訴追される罪状、裁判の進行と判決など、あらゆる面で問題を抱え込んだままに強行されたものだ。そしてここに連合国間の駆け引きや利害調整、そして恐らくは報復を目指す感情が影響し、結果としては被告への過酷ともいえる判決によって矛盾を無理矢理に解決した、という構造が明らかだ。
早いうちに戦争責任に明確な形で結論を付け、日本の占領と民主化をスムースに進めようとする意図が優先されたために、実質的な戦争責任のあり方は脇へ追いやられたともいえる。天皇の責任を問わないのも、それがポツダム宣言受諾の条件であったにしても、単に政治的な決定だ。
戦時中に抑圧された左翼勢力が一気に発言力を獲得したために、戦時の指導者、特に陸軍の高官を処断することに対しての国民感情もまた、厳しいものだったろう(残念ながら本書では、当事の世論については多くを語っていない)。天皇訴追を避けるために、連合国側がよってたかって東条に証言の仕方をレクチャーするさまなど、裁判が戦争終結と戦後処理のセレモニーにすぎなかったことを如実に示している。現在の目からは、裁判全体が茶番にすぎない(茶番ではあるが、現在の日本の繁栄の礎となったこともまた、確かだ)。

東京裁判が裁判と呼べるものではなかったことは、本書を読むことで立場によらずほとんどの読者に理解できるだろう。
私は上述のとおり、戦時の高官たちをすべて英雄視し、占領政策や日本国憲法、そして戦後の教育や社会制度などを屈辱の歴史と位置付け、価値観の転換を図る人々にはくみするつもりはないし、彼らの願望が実現するほど日本人は間抜けではないだろうと思っている。
しかし、恐ろしいのは、左右(と、言い切ってしまうことも単純化がすぎるだろうが)の双方が事実の認識をないがしろにしたままに、漠然としたイメージで戦争責任や靖国の問題を語ることだ。共通の歴史認識がないのに議論が噛み合うはずもない、認識の不足につけこんで自己の都合の良い世論を作り出そうとする勢力の跳梁を許すだけだ。
これは学校教育だけの問題ではなく、むしろ世論を形成し投票行動をはじめとする意志表示によって社会を動かす大人の課題だと私は思う。多くの日本人がさしたる根拠もなく国を破滅の手前に追い込んだ悪党と決めつけている戦犯と東京裁判の実態について知ることなく、首相の靖国参拝の是非を語るべきではない(なお、繰り返すが私が政治家による靖国への公式参拝を認めたり、太平洋戦争を自衛のための戦争であり正義の戦いだったと主張するわけでは全くない)。

 東京裁判 上・下
 児島襄 著
 中公新書

Posted by dmate at 2004年05月27日 22:21 | TrackBack
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