2004年05月26日

わかるために、書く

特に根拠はないのだが、高校の歴史の授業が嫌いだった、というかたはかなり多いのではないか。世界各地で(といっても、ヨーロッパと東アジアが中心なのだが)起こった出来事をただ時系列的に暗記させられるのが苦痛で、しかも何の役にも立たない、という意見は私の周囲でも多い。たしかに、ウェストファリア条約が1648年、フランス革命が1789年、ワーテルローの戦いが1815年...とただただ暗記するのは苦痛だし、さして役にも立たないことは間違いない。
役に立つ立たないという話を始めると、結局のところ教養は不要なのか、という話に落ち着いてしまいそうなので深入りはしない。ただ、少なくとも小説や映画を楽しむ上でも歴史や古典に関する知識の有無は実感できると思うし、歴史によらず基礎教養のレベルがあっていない相手と話すとき、たとえ世間話程度でもお互い疲れるのは事実だ。

エントリーのテーマにわざわざ採り上げたくらいだから、私自身は歴史が好きだったし、比較的成績も良かった(ただし世界史に限る、日本史については教師の授業内容があまりにも悲惨だったために早々に学校での勉強には見切りをつけた)。もともと丸暗記も不得意ではなかったが、さすがに世界史に登場する人名や国名・地名、そしてさまざまなイベントの名称などは丸暗記できる量ではない。そもそも丸暗記できる分量ではないのに暗記を試みるから、歴史の勉強は苦痛になるのだと私は思っていた。
では、どのようにしていたかというと、実に簡単なことなのだ。暗記勉強が嫌いな人でも、小説や物語なら好きだろう(それも嫌い、ということになると困るが)。私は歴史を長大な物語のあらすじを理解する教科だと考え、そのように学んだのである。

具体的には、まず百科事典をめくるところからスタートする。決して教科書ではない、教科書の記述はあまりに淡泊かつ簡略なもので、歴史を物語としてとらえることはできない。とはいえ、各時代の各イベントについて詳細に記述された本を繙く暇はない(たとえば、ローマ帝国の歴史を学ぶために、塩野七生氏の「ローマ人の物語」を通読する暇は、特に試験前にはないだろう)が、百科事典程度の文章量なら5〜10分で読める。辞典の各項目には関連項目が記載されているので、いくつかは読んでみる。だいたい3〜4項目をたどれば、おおむね時代背景や主たるイベントとその結果が理解できるはずだ。
もちろんこの段階では固有名詞などは覚えられないが、それはかまわない、とにかく全体のストーリーを理解することが大切だ。

次にノートの作成に移る。これは自分で書くことが何より大切だ。
私が高校時代に習った世界史の教師は、とにかく大量の板書をする人だった。白・赤・黄・青・緑・茶などいくつもの色を使い分け、45分の授業で黒板を3回は書き直し、生徒はそれを書き取るのに必死であった。もちろん、この段階で「やってられるか」とばかりに書取を放棄し、あとで仲間内でノートを借りる者も多かったが、当然ながら借り物のノートをさらりと読んだくらいで理解できるものではないし、成績もふるわなかった。案の定だが、世界史の授業の生徒からの評判はすこぶる悪かった。
私は授業中ももちろんノートはきちんと取ったが、試験前にはこの板書を書き取ったノートと百科事典などを読んで頭に入ったストーリーをもとに、再度ノートを作成し直していくのだ。いわば、歴史を教える教師が授業の準備のために行う作業をトレースすることになる。これによってストーリーのアウトラインに個別のイベントや人名・地名などが結びつき、単なる丸暗記ではなく歴史を物語として理解し、憶えることができる。
ノートの形式は自由だ。私は主なイベントを適当な間隔を取って縦に並べ、関連するイベント同志を線で結んだり隣に主たる人名を書いて並べたりしていた。いってみれば、付帯情報が大量に書き込まれた年表に近いものだ(見本を画像でお見せできればいいのだが、なにぶんにも20年以上前の話だけにノートはとっくに捨ててしまっている)。こうした書き方が嫌いならば、理解の範囲で物語を書き起こしても良いだろうし、箇条書きにしても良いだろう。物語を書き起こすという手法は中学校の時に何度かやってみたが、曖昧にしか理解していないとごまかしがきかないだけに何度も辞典や教科書を読む結果となり、成果は最も高い。ただし、かなりの時間を要するのが欠点だ。他の教科もあるので、ここはノート程度にしておくのが良いだろうと思う。

こうした学習法を、私は世界史だけではなく倫理社会などでも実践していたのだが、やっただけの効果はあってこの両教科については常に学年でトップクラスだった(自慢しているようだが、もちろんその一方では物理での悲惨な結果や、より重要な英語学習が不十分になるなどの問題もあった)。これは私がこれらの教科が好きだったからできた、という側面はあるにせよ、他の教科についても応用できる学習法だったのではないかと考えている。
この学習法のポイントは実に単純で、”自分で書く”ところにある。おおまかに理解したつもりでいても、いざ自分の手でノートなり文章なりにまとめ直そうとするとたくさんの穴があることがわかる。自分で書くことは、もっとも確実にこの穴を発見し、ふさぐ方法のひとつだ。しかも、自分が自分自身のために書くノートなら、理解できる範囲で省略したり記号を使ったりすることも可能だ、すでにわかっている部分は飛ばしてもかまわない。人から借りたノートで勉強してもほとんど身に付かないことが多いのは、誰もが無意識のうちにこうした省略をしているからとも考えられる。ノートはあくまでも録った人物のフィルターを通した知識に他ならない。他人のフィルターを通した知識をさらに不完全な自分自身のフィルターをかけて取り込むのだから、成果は低くなって当然なのだ。

よく言われることだが、”わかる”のと”わかった気になる”のとは大きく違う。自分の手で書くことは、どの程度”わかった”のかを確認するために非常に有効だ。同じことは”人に説明できるかどうか”という尺度でも測ることができる。weblogのエントリーひとつをとっても、中途半端にわかった気になっていることについて書くのは不可能だ。書き始めてあれこれと調べ始め、結局断念することも少なくない。
以前のエントリーでも書いたが、私は人事部の所属ではないものの、依頼を受けて社内研修の講師に担ぎ出されることも多い。たとえば決算書の読み方ひとつでも、自分で分析する分には何の迷いもなくても、基礎知識も持たない相手にその手順や判断基準などを伝えるのはかなり困難だ。ジャンルによらず良い入門書というのが実際には少ないゆえんだろう。
わかるために書くということは、わかっていないことの発見でもある。”無知の知”というほど大仰なものではないにせよ、自分がどの程度わかっているかを常に確認することなしには、人はいつか慢心に陥る。私がweblogで書き続けるのは、ともすれば慢心に陥りがちな自分の性格については、多少なりとも”わかっている”からなのかもしれない。

Posted by dmate at 2004年05月26日 21:07 | TrackBack
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