2004年05月17日

判断の前に認識を〜「イラク建国」

「ドイツ3B政策」については世界史の授業で当然習っていたし、3Bとは「ベルリン、ビザンティウム、バグダッド」のことだとはわかっていた。同じように、「フセイン=マクマホン書簡」だの「バルフォア宣言」といった個々のファクターについての記憶もあるし、これら英国の二枚舌、三枚舌が現在の混迷する中東情勢の直接原因であることも。
だが、悲しいかな高校の授業における第一次世界大戦前後の位置づけは、卒業を控え受験以外の目標が見えにくくなっている時期にほんの一コマが割かれる程度のもので、帝国主義的拡張政策が現代に落とし続けている陰について十分な認識を得るには不足している。私にしても、散発的に中東やパレスチナに関する本を読むことはあるものの、イラクがなぜ現在のような版図をもつ国家として成立したのかについては、ほとんど知識がなかった。

本書はふたつの魅力を持っている。ひとつは、もちろんイラクという国を定める国境線が、いかなる政治的意図や妥協の結果として策定されたものか(すなわち、そこに住む人々の幸せは一顧だにされることがなかったか)を知る、歴史へのガイドとしてのものだ。
アラビアのロレンスと同時代を生きた本書の主人公、ガートルード・ベルは個人としては本気でメソポタミアに住む人々の幸せを願っていたかもしれない。だが、彼女も含め当時の中東に大きな影響力を持っていた英国の政府関係者や軍人たちは、アラブの人々を国を与えても満足に統治し、栄えさせていける人々とはとらえていなかったのだろう。引かれた国境線は、いかに傀儡の王たちを動かしながら中東をコントロールするか、という意図に基づいたものだ。
人のためと称して自己の利益を追求するのは醜い行為だが、それが本当に相手のためだと信じているとなるとそれ以上に手に負えない厄介者とみなして良いだろう。残念ながら、ベルは私が見る限り厄介なお節介焼きにすぎない。これが日本に対して行われたことなら、私はベルを許さないだろう。

北のクルド人地区と中部〜南部のシーア派イスラム教徒とを加え、穏健な少数派スンニ派を優遇してこれをコントロールしようというイラクの成り立ちは、この時点で明らかにいびつで、統一国家としての必然性に欠けるものだ。クウェートという、イラクから海岸線を奪うために造られたような国土をもつ不思議な国家も、こうした引かれた国境に起源をもつという認識を広く世界の人々がもっていたとしたら、あの湾岸戦争でサダム・フセインが一方的な悪者になったであろうか(もちろん、すでに一定期間にわたって国家としての歴史を重ねた相手を軍事力で一方的に併合する行為を肯定するわけではないし、進攻の狙いは領土の問題だけではなく原油価格のコントロール権確保であったり、港の確保であったりするだろうからナイーブに政治家の主張を受け取るべき、と考えているわけでもない)。
私たちに必要なのは、なぜサダム・フセインがクウェートをイラクの一部と主張したのか、その主張には根拠や妥当性がどの程度あるのかを見極めた上で、その侵略行為をしっかりと判断することだった。だが、突然の進攻によるショックと世界的なイラク制裁論の前に、少なくとも私はサダム・フセインの主張を自分なりに消化することを怠った。
そもそもなぜイラクという国が成立したのか、その背景を知ることはこれまでも必要だったし、イラクへの国際社会の関わり方、日本の果たすべき役割を考える上で欠くべからざる知識のひとつだと私は思う。

本書のふたつめの魅力は、さながら冒険映画を観るような、砂漠を舞台とした列強間の勢力争いと、その担い手となった人々の人生だ。単純に活劇として切り出しても成立する、読み応え十分の物語が展開されている。厄介なお節介焼きとしてのベルの人生も、この歴史のうねりの中で必死に生きた姿としてとらえれば実に魅力的だ。本書は正しい歴史認識を求めてひもとく以外にも、単なる読み物として手に取るだけの価値がある。
これは本書のような性格の書籍には極めて重要なことだ。新書版は手軽に手にとって持ち歩くこともでき、さまざまな分野への入門書としての役割を負っている。したがって、読者は専門書や論文を読み慣れた人々ではなく、せいぜい新聞や雑誌程度しか活字を受け入れていない層をターゲットにする必要がある。このため、ページをめくるうち睡魔が襲ってくるようなものでは肝心の歴史認識についても伝えることができず、とにかく”読ませる力”が求められると私は思う。
とはいえ、読み物としての魅力と、専門分野への招待状としての内実とをしっかりとバランスさせている新書は決して多くない。往々にして前者に傾いたが故に、新聞の日曜版が厚くなった程度の内容になってしまうケースも少なくないのだ(それはそれで、活字離れが進む昨今、貴重だとは思うが)。本書はその条件をクリアした一冊として、幅広くおすすめできるものだ。

 イラク建国〜「不可能な国家」の原点
 阿部重夫 著
 中公新書

Posted by dmate at 2004年05月17日 20:58 | TrackBack
Comments

偶々同じ本を一昨日読んで、なかなかよくかけた面白い本だとおもって、ネットを探してここに来ました。

Great Game時代のベル嬢をはじめとした大英帝国の植民地官僚の冒険にみちた焦点を当てながら、イラクの建国事情を分かりやすく説いた本書は時宜にかなった良い入門書と、私も思いました。

ただイラクには短期旅行しただけのようで、基本的に英国系文献の再構成で作られた本書には、「イラクの空気」がやはり希薄です。著者のイラクに対する思い入れも、どうも実際のアラブやイラク人とは無縁の、少し観念的なもののように感じられるのは仕方がないのでしょうか。

日本にはまだアラビストの層が薄いので、その間はこういう本も十分存在価値があるのでしょう。

著者の名誉のために加えておくと、書末の文献表はこの種の新書には異例で、本書で興味を感じた読者が直接あたれるので大変重宝します。

Posted by: カラーフ@カラキタイ at 2004年06月13日 04:33

コメントありがとうございます
私もイラクについてはほとんど知識を持たないに等しく、おっしゃる「イラクの空気」を具体的には感じられませんが、あくまでも英国の目から見たイラク建国物語であることは間違いないですね。
それでも、こうした手軽に読める本によって、現在の中東情勢を形成したさまざまな経緯や過程を知ることは、理解の第一歩となるように思います。

Posted by: dmate at 2004年06月13日 12:55
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