2004年05月07日

文明という名の暴力〜『「勝者の裁き」に向きあって』

太平洋戦争に敗れていなかったら、今の日本はどうなっていたかを考えるのは難しい。首尾良くアメリカとの妥協に成功してアジアに覇を唱えたとしても、帝国主義的施策がそう続いていたとは思えずさらなる戦争の後に結局は敗戦と戦後の価値観の大転換を余儀なくされ、今と似たような状況が訪れていたのではないかとも思える。

ヨーロッパ列強やロシアによるアジア植民地化の動きに、独立を保ったとはいえ弱小国家であった日本が大きな危機感を抱き、軍備増強と防衛ラインの死守に走ったのは歴史の必然でもあったと思う。特に北方から中国・朝鮮半島への影響力拡大をねらっていたロシア(およびその後裔であるソ連)にどう対峙するかは、明治から昭和初期までの日本が抱える巨大な課題であった。
だからといって、朝鮮半島を併合し、傀儡国家満州国を打ち立てた昭和初期の日本の選択が正しかったとか、やむを得ぬ選択であったと擁護するつもりはない。状況はどうあれ、そこに暮らす人々に対して巨大な損害を与えた侵略行為であったことは変わらないのだ。

私はがんらい、他のだれかを腕力で従わせようとする人間が嫌いだ。わかりやすくたとえれば、「ドラえもん」に登場するジャイアンのような人物とはうまくやれた試しがない(もちろん、ジャイアンを利用して自分の思い通りに動かそうとするスネ夫ともだ)。また、一人ではおとなしいのに集団になると途端に元気になる者を信用できない。それゆえ暴力団やら暴走族は存在しているだけでも許し難いし、若者が街中で徒党を組んで歩くのもみっともないと思う。
とはいえ、私は腕力にはちっとも自信がないので、そういった連中と関わり合いになってしまったら何とかごまかし、多少は自尊心を犠牲にしてでも切り抜ける方法を考えるしかない。幸い、暴力団やら暴走族ともめたことはないが、中学・高校の間などはけっこうストレスをため続けた。
はなはだ単純な話ではあるが、こうした理由から私は戦前の軍人が威張り散らす社会というものを想像するだけで鳥肌が立つのだ。

東京裁判で裁かれたA級戦犯の多くは、当時「威張っていた」軍人たちの代表だ。東条英機のように首相を兼任していたものもあれば、軍指令だったものもいる。松井石根などは南京事件を引き起こした部隊の責任者というだけで、感情的な話ではあるが死刑は当然と納得してしまう(南京事件での犠牲者数についてはさまざまな見解があろうが、多数の市民を巻き添えにした作戦であったことは間違いなく、虐殺であったかなかったか、という議論は深入りするつもりはない)。
だが、裁判は報復の場ではない。たとえば通勤電車で猛毒をまいたり、小学校に押し入って子供たちを手当たり次第に刺し殺すといった事件の犯人について、一個人の感情としては公開で心身共に最大限の苦痛を与えながら処刑しても飽き足らないとさえ思う。しかし、そのような凶悪な犯罪者に対しても、その犯罪を立証し、与えられる罰の正当性を示すことが保証されていることが重要であることを、私たちの多くは納得しているはずだ。
東京裁判も裁判である以上、東条をはじめとする戦犯たちが、どのような罪状によって裁かれ、絞首刑や終身刑に値すると断ぜられたのかが明らかにされ、私たち自身が日本という国が取った過ちの結果を共有できるものであるはずだ。

さて、お恥ずかしいことに私はつい最近まで、東京裁判で処刑されたA級戦犯たちについてさしたる事実確認もしないままに無謀な侵略戦争を仕掛け、市民を巻き込む作戦を指示・認可し、捕虜の虐待を放置した犯罪者であると認識してきた。そのようなものが合祀されている靖国神社を政治家が公式参拝することには反対し、政治的な圧力をかけているとされる団体には大きな反発を覚えていた。
今でも、靖国神社という特定の宗教施設を政治家が特別な存在と位置づけ、その権威を高めるために手を貸すことが正しいとは思ってはいない。空襲などによる被害者も含めた戦没者全体の慰霊のための施設を国として設けたいならば、宗教施設としてではなく別の形であるべきと考える(ただし、戦没者といってもどこからどこまでを範囲とするのか、特定することは不可能なのだから、私個人はこれ以上公式な施設を作ったり、政治家がパフォーマンスを見せることにはなんの意義も感じていない)。
いずれにしても、左翼団体やら市民団体といわれるものの中の、非常に論理性を欠いた人々が主張する戦犯観・東京裁判観を私自身ももっており、疑問を自覚しないままに生きてきたわけで、本書を読み終えた今となっては実に居心地が悪い。
自らの無知を教育の責任にするのは好きではないが、私が受けてきた中学・高校における歴史の授業では、戦後に到達することなく学期が終了してしまっていた。私の周囲も同じようなもので、だいたい歴史は明治維新から日露戦争くらいまでで終わってしまったというケースが多いようだ。現実の生活の中で、仏教伝来当時の蘇我氏と物部氏との争いや、藤原氏の権力掌握の課程よりも、現代史の適切な知識が重要なことはいうまでもないだろう。にもかかわらず、現代史は各自自習、で終了してしまっている場合がほとんどのように思える。
現状はもう少し改善されているのかもしれないが、大部の歴史教科書を綿密に扱うアメリカの(一部かもしれないが)教育との差を感じずにはいられない。おそらく、日本で歴史を得意とする高校生のほとんどよりも、岡崎玲子氏の方が近代から現代に至る歴史についてはるかに適切で深い知識と認識を持っているだろう。「レイコ@チョート校」「9・11ジェネレーション」で示された歴史教育に学ぶべき点は大きい。

以上のていたらくだけに、本書を読み終えた現段階で、私が東京裁判の意味合いについて何かを語るべきではないだろう。
ただ、主席検察官であるキーナンの言葉として引用されている、次の言葉については、驚きを禁じ得なかった。

「(前略)我々は現にこゝで全世界を破滅から救ふ為に文明の断固たる闘争の一部を開始して居るからであります......(中略)彼らは文明に対し宣戦を布告しました。」

この言葉と、イラクの社会や政治の姿を野蛮と決めつけ、民主主義という文明を持ち込み授け与えようとするブッシュの言葉との間にどれほどの距離があるだろうか。ましてや、日本が宣戦を布告したのはアメリカやイギリスに対してであって、文明に対してではない。自らを文明の体現者と位置づけ、文字通りの報復を行う勝者アメリカの姿勢は今でも変わらないということだ。このような”裁き”が正当なものであろうはずはない。
とはいえ、東京裁判の否定は”大東亜戦争”や戦前の帝国主義的な行動の肯定とはもちろん一致しない。戦争にかり出されていった日本人たちに悪意がなかったからといって、侵略戦争を美化などできないのは私には自明のことだが、小林よしのり等の脳天気なほどの肯定論や反米論にはとてもついていくことはできない。
いずれにせよ、東京裁判や戦争責任についてはもっとしっかりと情報を集め、事実を認識した上で再評価する必要がありそうだ。興味あるテーマが増えることは楽しい反面、時間の制約を考えるとつらいところでもある。

 「勝者の裁き」に向きあって〜東京裁判をよみなおす
 牛村圭 著
 ちくま新書

Posted by dmate at 2004年05月07日 22:07 | TrackBack
Comments

東京裁判はびみょーだけど重要ですよね
そして、明らかに「裁判」と呼べるものでもなかったので...

で、そういうことを主題とするべく映画(「プライド」)なんかつくって上映しようとすると、変な団体が来て、「劇場閉鎖!」を叫ぶんですね

そして、こういう団体って・・
往々にしてバックにヤバイ団体がついてるんですよね...
(ウヨクと似たようなやつ)

そういうのには気をつけたほうがいいんだけど..
いまのコ達はけっこう無防備なので心配です。。


それとは別に中国・韓国(あるいはオセアニア方面)に対して、日本がひどいことした、って事実はあるんだけど...

まぁ、それはまた別の話、と
(とっとと謝っちゃっとけば良かったんですけどね)


新書だと、日高六郎「戦後思想を考える」「私の平和論」なんかが面白かったです

Posted by: m_um_u at 2004年05月08日 11:12

コメントありがとうございます
東京裁判を再評価することと、戦争責任や戦争を引き起こした日本の政治体制や価値観を肯定することとをきちんと切り離さないといけないと思うのです。
ちょうど、再軍備論議と憲法改正論議を分離できないのと似ています。
まあ、タテマエで改正論議や再評価論議を起こしてから、真のねらいを持ち出すようなやり口を、左右ともにやりがちなので、相互不信は根深いでしょうね。
ただ、無視しては歴史から学ぶことはできませんし、まずはきちんとした認識を持つことが重要だと感じています。

Posted by: dmate at 2004年05月08日 18:55
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