2004年04月30日

学ぶ基礎体力をどうとらえるか〜「レイコ@チョート校」

先日読んだ「9・11ジェネレーション」の著者による、アメリカ合衆国での学校生活を描いた作品。16歳のデビュー作ということになる。
著者が通うのは、プレップスクールと呼ばれる、大学進学に向けて学ぶスキルと知識をつけるために優秀な高校生(日本でいう中2から高3まで)たちが集う私立学校。その入学のための課題を見るだけでも寒気がする難関だ(課題とされているエッセイ類を、たとえ日本語でも書くことは中学校時代の私には無理だったろう)。

たとえば歴史を学ぶにあたっても、個々の出来事の意味合いやその狙い、評価などについて議論し、積極的なコミットがなければ得るところの少ない授業は、授業と同等の、場合によってはそれ以上の予習時間を必要とする。授業時間と各自の独習時間とがセットになり、学びが成立するように設計されているのだ。
著者も最初は戸惑いを持つものの、あっと言う間にその学びの体系を我が物とし、読者から見れば易々と乗り切っているように見える。もちろん、何度も徹夜を経験したとある通り、軽快な文章ほど簡単なものではなかったであろう事は容易に想像できるが、少なくとも著者はこの経験から確実に考え、調べ、書き、伝える技術を磨き上げた。そのことは、この最初の著作から2年を経て発表された「9・11ジェネレーション」との間にさえ、大きな進歩となって現れている。

ここで求められる技術は極めてシンプルなものだ。
さまざまなニュースソースから事実を多面的にとらえ、仮説を立て主張を構築し、その論拠を整理して論理的に主張を伝える。近ごろ流行しているプレゼンテーションや企画書の虎の巻でも、きっと同じことが書かれているだろう。基本中の基本であるともいえる。しかし、安直なノウハウ本の数を見ればわかる通り、私達の多くはこの基本技術を身につけないままに社会に出て、見よう見まねで企画やプレゼンテーションを行っている。

先日取り上げた「上司は思いつきでものを言う」で著者の橋本治氏は”書き手は読み手が馬鹿である可能性を考えて、馬鹿でもわかるように書く責任を負う”という趣旨の指摘を行っているが、ビジネス社会においては逆に”書き手が馬鹿である可能性を考えて、論理や表現の不備をカバーして読んであげる”事が必要なのだ。もちろん、こうして偉そうに書いている私自身も、油断するとすぐに読者にカバーしてもらわねばならないお馬鹿な文章を書いてしまう。
ドキュメントの作成という、コミュニケーションにかかわる重要な基礎体力のひとつにおいて、著者の岡崎玲子氏と私も含めた多くの日本人との間に大きな開きがある。これは才能だけの問題ではなく、才能を伸ばす教育の差だ。岡崎氏だけでなく、アメリカではこうした教育を受け、十分な基礎体力を持った若者が続々と社会に送り出され、早いうちから組織を動かす立場になる。これこそアメリカ経済の活力源にほかならない。

方や日本における教育は、社会で必要な読み書きや計算の能力を平均的に引き上げることに未だに注力しているかのようだ。もちろん、ほとんどすべての国民が一定の読み書き能力を持ち、掛け算九九程度は苦労せずにできることが日本の競争力につながった事実を否定するつもりはない。平均的に一定水準の知識を持つことの重要性は今後も変わらないだろう。本書やこれに続く「9・11ジェネレーション」でもチョート校のようないわばエリート養成期間の生徒にあっても、私達にとっては常識といって良い認識を欠いたバランスの悪さが浮き彫りにされる。まさか日本人で広島・長崎への原爆投下での犠牲者数が、2001年9月11日にニューヨークで発生したテロ事件での犠牲者と同じ程度だと認識する者はいまい(いるとすれば、私に認識以上に日本の教育現場は機能不全に陥っていることになる)。また、社会や組織を動かす少数を早い段階から選別してしまうことの是非についても意見はわかれることだろう。
一方、多くの日本人は論理的な文章を書く訓練は十分に受けておらず、結果として何の説得力もない企画書を作り、論理ではなく雰囲気で物事を決め、成果主義という名の情実人事を繰り返しているのも事実だ。人と人との間に差を作るくらいなら、全員で非効率な社会に生きることを選んでいるといっても良いかもしれない。日本の一般的な教育と、著者が描くチョート校での教育とでは、基礎体力のとらえかたがそもそも違うし、教育がなすべきミッションも違っている。

どちらの姿がより多くの人々を幸福にするのかは、簡単に答えを出せない問題だ。アメリカの真似をすれば良いというものではない。確かなのは、これからも本書のような教育環境のもとで育ってくる人々と、私達は対峙しコミュニケーとして行く必要がある、という事実だ。当然私達の中にも、彼らと渡り合える人材を育てて行くことが必要となるだろう。

本書でのチョート校の生活は、実にいきいきと描写され、恐らくこれを読んだ中高生の多くがこの環境で学ぶことを希望するだろう。それは、今の日本の学校教育が抱える閉塞感の現れでもある。
教育する側の努力不足だけを責める気はない。たとえ高校が変わろうとしても、大学が受験制度やクイズのような出題傾向を変えない限り瑣末な知識の差にこだわる教育は続くだろう。また、習熟度別のクラス編成が一般化しないのは、教師だけでなく親たちにも反対者が多い故だと思われる。親の側もまた、教育を変化させる上での抵抗勢力となる。もちろん、教師にしても社会人としてのコミュニケーションスキルや文章作成力を磨く機会を会社員以上に持っているとは思えず、チョート校で実践されるような教育の担い手としてはあまりに力不足だ(今では、学校の教師よりも子供たちの両親の方がはるかに高い知識と教養をもつことなど、ごく普通だろう)。

いま必要とされるのは、多様な教育のあり方を是認し、教育機関の側がその方針やゴールを明確に示すことだ。子供たちが、あるいはその親たちが、それぞれの能力や適性、希望に合わせて選択できる制度を用意すべきだ。
”ゆとり教育”が直接に学力低下を招いたかどうかについては議論があるだろうが、チョート校には”文部科学省的な意味におけるゆとり”など存在しないことは明白だ。”全員が100点を取れる教育”などお題目としても馬鹿げていることは数秒考えればわかるし、人には能力差がある以上、低レベルにそろえるしか実現の方法がないのは誰にでもわかる。それでもゆとりがほしければそれを選んで足利尊氏と蘇我馬子の違いもわからぬ大人に育てれば良いし、学校を選んでしっかりとした思考力とスキルを身につけさせるのも良い。スタートラインは平等なのだ。

長い間機能してきた教育の制度や体系を変えるのは容易ではない。
しかし、考え、学ぶ技術を中心とした教育が、岡崎氏の才能を見事に開花させ育てている実績からも、私達が基礎体力のとらえかたを変えて行くことのメリットは大きいと判断する。
教育改革は今子供たちをもつ親や教師だけの問題ではない。子供達を社会に受け入れる私達自身の問題として考えるべきだ。

さて、本書を手にするのに実は少々時間がかかった。発行は2001年とたったの2年半ほど前にもかかわらず、書店の棚で見つけることは既に難しくなってきている。新書ブームの結果、毎月発行される新刊が棚を占領してしまい、たった2年の間に在庫が入れ替わってしまうようだ。「9・11ジェネレーション」は評判のようでどこでも平積みにされているが、同じ著者の作品を隣に置くという配慮はほとんどの書店で見られなかった。
書店は毎月流れて行く新刊書の置き場所ではない。物理的な店舗スペースの問題は大きいにせよ、知のストックとしての役割を忘れないでいただきたいものだ。

 レイコ@チョート校〜アメリカ東部名門プレップスクールの16歳
 岡崎玲子 著
 集英社新書

Posted by dmate at 2004年04月30日 21:23 | TrackBack
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